まつりのあと
成立したつがいが通される廊下を、大きな影を追い掛けて歩いた。金茶の髪、がっしりとした巨躯、胎宮の友人に聞いた通りの姿が俺の前を行く。分厚く平たい剣鉈が、彼の歩みに併せてかちゃかちゃと鍔を鳴らしている。
「花喰人」の対(つい)として呼び出されたのは唐桃ではなく、自分だった。
まさか俺が、と思う。
けれどそれは驚きというよりも、いいのだろうか、という躊躇いに近かった。
誤解を恐れず評せば、姶濱(あいびん)の理力は花護としては並だった。
理力の大小というものは、ひとが官としての優秀さや仁徳に重きを置くのと同じくらい、我々にとって重要なことである。
ただ、彼女は柳をよく育ててくれた。護ってくれた。
だからこそ俺はこうして生き存えているのだし、胎宮にある柳の「母なる木」も、すこやかな青い葉をつけていたのだ。
だが、この花護は違う。執政に近いほどのことわりの力を持っている。そしてその力を、つがいではなく蟲を屠るためにふるっている、らしい。
樒(しきみ)にしろ、唐桃にしろ、膨大な理力の源泉にも、受け皿にもなれる強い花精だ。彼らの代わりは俺には到底務まらないのに。
何故、百花王は俺の名前を呼んだのだろう。何故、柳は彼を選んだのだろう。
ちがう、選択したのは、ほんとうは俺なのだ。種の意思は俺の意思で、当代の柳は誰有ろう自分自身なのだから。
「おい」
ふいに呼びかけられて、いつの間にか、立ち止まっていた男を見上げた。
涅色(くりいろ)の目。たゆたう流れの底に沈む、泥のいろだ。虚ろとするには力強く、感情を覗くにはあまりに深い色合いだと思った。現に、彼が何を考えているのか、さっぱりわからない。
「なんだ」
花護は鼻を鳴らした。
「…愛想のない花精だな。雄は初めてだが、こんなものか」
会話とするよりも、むしろ独り言に近い口ぶりだった。黙り込むのは容易だったが、態度で証することでもないように思え、「どうだろうか」と応じた。
「よく言われるから、俺の性格なのかもしれない。周霖がなおせというのなら、善処もするが」
「…『俺』」
「?」
「『周霖』」
「…なんだ?」
面倒そうに開かれていた半眼が、少しだけ瞠られたようだった。数歩の距離を詰め、男は俺の前まで戻ってくる。爪先近くの位置に立ちはだかられると、もう、向こうの景色は見えなかった。
だらしなくはだけられた襟元から、張り詰めて鍛えられた胸板がのぞく。膚は随分焼けていた。およそ旗人の膚の色ではない。
「お前は、前のつがいのこともそういう風に呼んでいたのか」
「…ああ、」
呼びすてのことを言っているのか。首肯する。
「そうしていた。敬称をつける必要はないと。…気に障ったのなら、やめる」
「今更サマ付けされても空々しいだけだ」
「…そうか。わかった」
周霖はなおもじろじろと俺の全身を検分した。まるで、今、初めて後ろに付き従っていた花精に気付いたかのように。
何かおかしなところでもあるのだろうか。
首輪のない、花紋が浮き出たままの首、低い立襟と、かっちり手首まで覆う碧緑の衣は姶濱に貰ったものだ。平たい布靴は紺で、繻子(しゅす)でも天鶩絨(びろうど)でもない、安価な木綿張りの代物である。
華美には程遠い、長めの裳裾さえなければ碩舎の書生のような風体の俺は、老いた花護と並んでいると、たびたび親子に間違えられた。
さすがに夫婦とは思われないわね、と、彼女はよく、笑っていた。
「―――来い」
突然に手をぐいとひかれ、たたらを踏む。勢い余って硬い腕に鼻の先をしたたかにぶつけてしまった。
男はちらとも気にした様子もなく、なんと、窓から下へ飛び降りた。唐草模様の壁紙、藍に塗られた柱、その先にあった大扉、すべてが一瞬にして消えた。
代わりに足を付けたのは草地。青春宮のところどころに作られている小庭のひとつだろう。
辺りを見回す暇もなく、再び手首が握られる。日がかげり、屋根のあるところに入ったのだと分かる。宮勤めの小者が行き来する廊下だった。どこか黴臭く、人気がない。扉すらない、人が灯りをささなければ永劫に暗いままの部屋が、壁にそってひとつ、またひとつと口を開けている。
「…詳しいな」
迷わずに進む軍靴を見下ろし、俺は呟いた。周霖は肩越しに一瞥すると、すぐに前へ向き直った。
「親父に連れられて青春宮に出入りをしていたからな。餓鬼が暇をつぶせる場所なんざ限られている」
押し込められたのは被服室とおぼしき部屋だった。
敷き詰められた簀の子の上に、粗織りの布が積み重ねられている。あとは大きな箪笥があるのみだ。
天井にはしる白い模様を認め、目を凝らす。蜘蛛が幾重にも繊細な網を張っていた。出掛けているのか既に死んだのか、織り手の姿はない。
「前のあるじは、女か。男か」
口を利いた闇に、俺は目線を遷した。手首は既に自由を取り戻していたが、力任せに掴まれたそこは熱く、腫れぼったくなっていた。
「女だ。財城の姶濱といった」
「名などどうてもいい」と、言葉の通り、心底どうでもよさそうに彼は言う。「寝たのか」
「……は?」
その聞き返し方はいたく周霖の機嫌を損ねたらしい。
あ、と思う間もなく大きな手が俺の首に掛かっていた。ついで、衝撃と共に積み上げられた布の山に押し付けられる。緩衝があったから背中が痛むことはなかったが、呼吸は当たり前に苦しくなった。
「寝たのか、って聞いてんだよ。あァ?」
「…っ、け、閨房の交わりはない。共寝くらいならしたが」
俺の言葉に、彼はくつくつと押し殺した笑声をたてた。
「雄の花精を得て、手を出しも出されもしなかったか。…そうか、夫がいたのか。一緒に愉しめばいいものを」
「…夫はいたが、既に別れていた」
「それもどうでもいい話だな」と周霖。「じゃあ、どうやって『仲良く』なったんだ?お前と、前の柳の花護は」
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