投じられる意思(1)



【惺】


ここのところの日課は連絡通路二階の中央に張り出された告示を毎日確認することだ。
一昨日も昨日も、視線で穴をほがしそうな程に見ている。それでも訂正版が出たり、氏名の付け足しが出る予兆はない。何故だ。
俺の記憶が確かなら、立候補の期限は既に過ぎている。いや、そもそも今日は午後から候補者演説会ではなかったか。時が来れば俺も演台へ上がり、自分に票を入れてくれ、と声を張り上げなければならない、その当日だ。

身の入らない、我ながら反省の一言に尽きる自主朝練をこなした後、着替えも慌ただしく特進科棟方面に向かった。幾らなんでも今日こそは掲示が変わっているかもしれない。場合によっては演説会で訂正が入るのだろうか。
もやもやと纏まらない頭で、それでも歩みだけは迅速に進む。数日で体も覚えたらしい。

格子状に張り巡らされた鉄骨に分厚い板ガラスの面を持つ通路は、朝の日の光で眩しく輝いていた。放送委員による朝の放送が始まるよりも相当に前だ、人気は全くない。どこもかしこも平等に晴天の恩恵があって、造りの凹凸に従い、ひたすらに白く灼けた面やら、鋭角の影やらを生んでいた。

両目を眇めながら、掲示板を捉えようとして―――すっくりと立っている人影に気がつく。舌の根が咥内の妙なところに張り付いて、上擦った声が出た。

「……すばる?」
「―――さとる」

己の背丈と大して変わらないであろう、緑の繊毛に貼られた紙を、彼は眺めていた。
俺は呆然とし、次に何とも言えず胸にこみ上げるものに突き動かされて走った。飄々と立つ姿を見間違える筈もない。半年か、それ以上か。少なくとも学校で逢うのは一年ぶりだ。

夏彦と同じように姿勢良く、しかも全身から滲む威志を隠す風もない様は相変わらずだった。半袖のカッターシャツ、赤いネクタイ。黒いスラックスは確か式典用のもの、と記憶しているが昴は入学当初から好んで身につけていたように思う。…もしかしたら、単純に面倒なだけかもしれない、が。
ぬばたまの、という表現に相応しい漆黒の髪と、同じ目の色。切れ長の眼窩から此方を見遣るひとみは黒目の割合が多く、心底まで覗かれているような錯覚に陥る。

出迎える風に正面を向いた昴は、うっすらと笑みを刷いた。ひたすら冷たい印象が勝る男だが、夏彦や俺に対しては、それなりに感情を見せてくれる。安堵と再会にこちらも顔がほころんだ。
肩を掴むとその僅かな笑みもすう、と退いていく。構わず、叩いた。慰謝料というか、心配料としては安いだろう。

「元気そうで何よりだ。…変わらないな」
「惺も。まいにちばかみたいに練習三昧だとなつにきいている」
「少し、背が伸びたか?」
「のびたな」

昴は平然と言った。彼の回答の通り、去年は俺よりも低かった身長が、同じか、下手をすれば若干高くなっているような気がする。くそ、追い越されたか。

涙を流すほど感傷的な性質ではないが、友人の帰還はやはり嬉しかった。思いがけないタイミングで逢った驚きも手伝って、ばしばしと繰り返し叩いてしまう。流石に昴が「やめろ」と言った。

「悪い悪い、つい、思いがけなくてなあ。…そう言えば、」

そうだ。何故こんなところに立っていたのだろうか。制服を着ているということは、今日から登校なのか、それとも事前に呼び出されただけなのか。確認したいことが溢れかえって、情けなくも話の順序がおぼつかなくなりそうだ。

「こんなところで何をしているんだ?」

取りあえず、とばかりに全方位兼用の質問をすると、形の良い顎がす、と上がった。それだけで、さらに威圧感が増す。本人にしてみれば何気ない仕草なのだろうが、慣れない人間にとっては毒だろう。
とはいえ、昴をよろう鋼鉄は家の事を考えれば無理からぬことだった。夏彦同様、彼の舐めてきた辛酸は俺の想像を超えている。

「なつをまっている。……それから、惺のなまえをみていた」
「俺の名前?……ああ、」

黒い瞳が示す方向へ従い、模造紙の何列目かに書かれた自分の名前を見遣った。執行部立候補者として、特進科数人の名の後に、俺のフルネームが書かれていた。頷いて、言う。

「当選したら儲けものだ。どうなるかは、分からないが」
「うそだ」

昴があまりにも即座に言い放ったので、反射的に聞き返してまった。

「……何?」
「惺はまけるいくさはしない。まけずぎらいだからな。……そうだろう?」

嘲弄、ではない、しかし快の感情とは程遠い―――深い笑みに息が詰まった。
硬質な印象のある顔立ちが物騒なベクトルに壊れる。
装うな、繕うな、とっくに分かっているのだと、言外に指摘されている。

俺は強すぎる視線を避けるように、そして真に正しい答えを纏めるべく目を閉じ、頭を振った。

「悪かった。…受かるさ、きっとな。末席には入るだろう。応援人には特進科の友人も入れたし、足で稼ぎもした」

昨今流行のどぶ板選挙だ、と付け加えてやったら、またしてもすっと、冷めた表情が戻ってきた。昴は淡々と言う。

「惺はうそがへただ」
「…自白させるのが異常にうまいだけだよ…お前がな」

がりがりと首の根を掻きながら、再び掲示に視線を遣っている友人の横顔を眺めた。続けての回答や説明じみたものは期待できそうもない。気になっていることは重ねて聞いておいた方が良いだろう。夏彦と違って、昴ははぐらかした返答をしない男だ。返事をしたくなければ、一切口を閉ざし、何も教えてくれないだけだ。

「学校は」
「きょうからだ。手続きはすませた。なつがいま、教師とはなしている」
「そうか。…よかったな」
「どうだろうか」と昴。本当にどうでも良さそうだった。「…まつべきものももう、いない」
「待つべきもの?」
「―――なつはおそいな。…さきにいく」

唐突に彼が踵を返したので、ぎょっとした。ホームルームにもまだ時間はある。先ほどから此処で二人話しているが、誰一人として通らないような時間帯なのだ。

「おいおい、待たなくていいのか…」
「となりの教室だ。みうしなうような場所でもない。たいしたことじゃない」
「それはそうだが…」

職員室があるのは事務棟だ。二階の連絡通路は十字に走っていて、その一方は教職員が詰めている棟に繋がっている。夏彦を待つには今の場所はうってつけで、だからこそ昴もここで時間を潰していたのだろう。

「おれはいく。…惺はどうする」
「…俺も、行くさ」

昴の言うように、迷子になる場所でも年齢でもないと、嘆息しながらも答えた。本当ならば彼と此処で夏彦を待ち、直接に問い糺したいことがあったのだが、やむを得ない。
気を取り直し、右の手を彼へと差し出した。腰の辺りで拭いてから突き出したのは、まあ、気分的なものだ。

「何にせよ、おかえり、だな。昴」

そう言って笑って見せると、彼は漆黒の目を数ミリ眇めてから、「惺はかわらない」と呟いた。やや呆れた風が漂っていたのは俺の思い過ごしだろうか。
渋々とした動作で返ってきた手をしっかりと握る。

万事、何にせよ、だ。当たり前のことだけれど、始めなくては、何も始まらない。





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