名前の無い少年(3)






【斗与】

目深に被ったレインコートから覗く彼の双眸は、夜の闇よりなお暗く、けれども、炯々と光っていた。恐ろしいくらいに静謐なそれから俺は目を逸らせずにいた。恐怖、ではなく、畏怖だったのかもしれない。
そして彼も俺をじっと見ていた。影を縫い付けて立ち上がる意志を挫こうとしているようにも、ただひたすらに、居て欲しいと懇願しているようにも思えた。夏でも水辺は涼しく、草叢からは絶え間なく甲高い虫の声が聞こえていた。頭の上は満天の星空だ。

「あれがさそり座?」
「そうだ。ひかりのはやさで600年先にある」
「オレンジ色だ」
「火のいろだ。おまえがみているのはアンタレス。赤星、火、スコルピヨン、カルヴ・ル・アクラブ。さそりの心臓」
「さそりの心臓」

酷く生々しい言葉だ。それから俺は虫にも心臓はあるのだろうか、と思う。さそりって虫だよな。それとも海老とか蟹の友達みたいなものなんだろうか。生憎、星も虫も全然詳しくない。
彼はそんな俺の疑問を気にした風もなく、淡々と続ける。年の差はほとんどない筈なのに、彼の声質は心地が良い低めの声だ。音は俺の体躯の中に入り込んで響いた後、ふっと抜けていく感じがする。

「タイカ」
「―――タイカ?」

文字の変換が出来なくて、鸚鵡返しに聞き返すと、乳白色のビニールにくるまれた頭がゆっくりと頷く。「タイカは星のなまえだ」と彼は繰り返す。

「皆の倖いのためなら、身を焼き尽くしても構わない、と書いたひとがいた。身を焼くほのおは蠍の火だ」
「……それがタイカなの?」
「そうだ」と彼は頷く。「…やかれたほうがみんなのしあわせのためになるものだって、ある」

何だかニュアンスが変わったぞ、と俺は思う。あまり賢かないけど、俺様な兄貴を持つと、それなりに人の心の振れには敏感になるのだ。じゃないと生命の危機だからな。
人の為に犠牲になることと、居ない方が万人にとって幸せになるってのは、別物じゃあないのか。

「そんな倖せはクソだ」

うまいことが言えなくて結局俺が言った台詞は相当に酷いものだった。彼も瞬きを止めてさらに深く見つめてくる。

「そいつがいない方が皆倖せ、ってのは変だ。俺はおかしいと思う。…ええと、ゴキブリとかの話じゃないよな、念のため聞くけど」
「…ごきぶりはきらいか」

声のトーンが僅かに上がった。形の良い薄い口脣がふう、と上がった。やや長い前髪から覗く、黒目の勝った瞳にきらきらと興味深そうな色が載る。

「出たら倒すけど。あの触覚がこっち向いてサーチしてる感じが凄え苦手」
「……なるほど」
「あんたは平気なの?」
「みたことがない。図鑑でみたことはある」

ああ、ああそうでしょうとも。母さんが死んでからこちら、男所帯で家事は目も当てられない有様だからな!いや、そもそも母さんが生きてた時からありえん惨状ではあったけど。
彼は笑みを浮かべたままで、何でもないことのように続けた。

「蟲のはなしじゃない。…そういう種類の人間もいるというはなしだ。おれが蟲をみたことがないのとおなじように、おまえのまわりにそういった人間がいないだけのことだ」小さく息継ぎの音が聞こえる。「―――それはとてもしあわせなことだ」




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