(3)




(「……糸居、…拗ねた?」)

それこそ前代未聞だ。
なにせ霞か雲でも喰ってんのかっていう男は、睡眠を阻害されること、後は故意か天然かは不明だが、十和田をパニくらせている時以外はおよそ悪感情じみたものをみせない。
多分、興味がないのだ。興味がないから、攻撃しない。人格者とかそういうのじゃなくて。

思わず放してしまった襟が、数歩先でゆらゆら揺れている。久馬があれこれ説教じみたことを言いながら、なおも糸居の髪をくしゃくしゃに引っかき回している。
中途半端に曲がる、自分の指を見つめた。


少し前まで掴んでいたのに、今は何をも捕らえていない掌。


丸まった背、男にしてはやや狭い肩。どんなに距離があっても腕一本分からは遠くに行かなかったそれに、掛けるべき言葉を失ったとき。


「じゃあ、結婚しちゃえばいいじゃない」
「…はア?!」
「ね?」

官能的な笑みを浮かべたのは、誰あろう白柳だった。
俺を見、そして顎を垂らして美形を台無しにしている己の親友と、目玉を真円にしている糸居へ順繰りに視線を遣る。

「結婚。大学どころか一生一緒だよ?」
「…立待。聞き流せ」と、久馬。

黙って首肯する。言われなくたってそうするわ。
白柳って時々この手のトンデモ発言をするんだよな。普段の優等生ぶりが嘘みたいだ。
抑揚のない声で親友に突っ込まれても、彼はめげたりしなかった。俺的にはオランダとかノルウェーがお勧め、だなんて、聞きもしないことを喋っている。

そして、めげていない奴がもうひとり。

「よーし、マチ、結婚しよ!」

先ほどまでの無気力ぶりはどこへやら、それこそ世紀の大発見をしたかのような勢いで友人が跳ねている。あまりのことに久馬が退いた。いや、ドン引いた。勿論俺は絶叫した。

「ねえし!」

頭いいんだから深く考えてくれ!スピード婚を否定するつもりはないが、行き当たりばったりの結婚は厭だ。こんな年じゃ想像もつかない人生の契約だ、でも、本当にこいつが好きだと思える相手と結婚したいと思うのは、男子高校生としては夢見がち過ぎるか。
第一、 前提として俺とお前は男同士だろうが!

「だからそのためのオランダでノルウェーなんだってば」

そこは解決するところと違う、白柳。俺はがっくりと項垂れ、首を横に振った。

「マチは俺じゃやなの?」
「いや、だからさ、糸居。そういう問題じゃない…」

縺れまくった糸の解き口は何処だ?折角真っ直ぐにした髪を額から掻き上げながら必死に考える。その間も、無責任な外野の不規則発言は続く。

「帰一が厭なんじゃないってさ。良かったねえ、嫌われてなくて」
「おー!」
「まあ確かに嫌っちゃいないみてえだし、厭よ厭よも好きの内、とか言うしな」
「…久馬までそんな事言わないでくれ…」

「ここはもう、逃げられないように交換条件にしちゃえばいいよ」とさらに不吉なことを宣う生徒会会計の口を、出来れば縫ってしまいたい。つかお前こんなキャラなの。知らなかった、俺。

「例えばさ、総理大臣になったら絶対結婚とか」
「糸居があ?」と久馬。「…日本全土が冬眠しちまうんじゃねえの」

厭だよそんな冬の時代。

「それじゃあノーベル賞取るとか」
「ノーベル賞ってどうやってとんの」

かつてない真面目な声音で訊ねる友人に、聞かれた久馬はアメリカナイズドされた呆れポーズを作って見せた。

「それを考えるんだろ。ってか、ノーベル賞って結果であって目標じゃねえだろ。特にお前が脚突っ込みそうな理系分野は」
「うちのお袋は電線しないストッキングがあったらノーベル賞って言ってたねえ」と白柳。
「兄貴は花粉症が治る薬が欲しいって言ってたなあ」と久馬。

俺は痛みを増すばかりの頭を両側から抑えながら、呻くのみだ。

バナナの買い食いに教室を出て、半ば習慣のように糸居の襟を掴んだだけなのに、どうしてこんな話になるんだ。そしてどうやったら不毛極まりない話題が終わるんだ。皆目見当もつかない。
そもそも俺みたいな凡人眼鏡が対峙するにはあんこが重すぎる。天才と俺様と、優等生…もどき。太刀打ちできる奴なんて、うちのグループでも一人か二人、居るか居ないかだ。

「ねー、マチ〜」
「…なんだよう」

半泣き一歩手前で、それでも返事をすると、すっかり元気になってしまった友人が軽い足取りで横に並んできた。さっきの怠惰な歩き振りが冗談みたいだった。

「マチの願いはなに?」

―――伸び切った前髪に見え隠れする目はひたすらに楽しげで。

悪態を吐いてやるつもりが毒気を抜かれる。
なんだ、そりゃ、かぐや姫か何かみたいだな、まるで。俺は一言たりとも、希みを叶えてくれたら婚姻届にサインをするなんて言ってねえぞ。
口脣を引き結んで黙っても、糸居はずっと待っている。仕方なしに小さく溜息ひとつ。それから答える。

「世界平和」

ちょっと顎を引いた動きに合わせて、くるくるカーブする前髪が揺れた。骨張った指が、スラックスのポケットへ潜っていって、小銭を弄ぶ。

「…せかいへいわ」

真っ黒い目でもって瞬きを繰り返した後、友人はいつもと同じようでいて、どこか違う力の脱けた笑みを浮かべた。
表現を変えれば、蕩けるようなと言い換えても差し支えのない顔で、それが一番難しそうだね、なんて呟きながら。



>>>END and The world is conquered.


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