(2)
確か少舎の教師だったか。夫に、息子がひとり。別れた理由も聞いた。思い出すと、己の中の誰かが哀しげにうなだれているような気がした。これもあくまで俺の錯覚、の筈だ。
花精故に、別れた。
彼女の息子が、柳精に惚れたのだ。恋をして、叶わないと知って自害を図った。幸い命は取り留めたけれども、夫は、妻と花精を赦さなかったそうだ。
『あなたたちは何も悪くない』
息子が花護であったなら、あるいは。それが無理でも、花精にただ一言「求めに応えろ」と命じてしまえれば。
結局は、わたくしが花護を辞められなかった、それだけのことだったと。
教えてくれた姶濱の横顔は静謐で、いつもの彼女と少しも変わらなかった。あんな風に、想いを呑み込んで生きていくために、何が必要なんだろう。俺にはわからない。
花精の生は単純だ。後継を残すこと、種族を絶やさないこと。蟲を憎み、嘘を吐かず、花護に尽くすこと。己の記憶は残しても、想いはすべて消して去ること。これがすべて。
ふうん、と納得したのか定かでないような相槌を打って、男は軽く腰をかがめた。何をするのかと思ったら、桶から取り出した柄杓が裏返った。細かな飛沫が跳ね、石の黒さが深くなる。あんまりかけてもよくないのだが、止めはしなかった。好意でも暇つぶしでも、どちらだっていい。
物言わぬ柱が濡れるたび、下の土が潤うたびに俺は不思議と楽になる。周霖に連れ添っているときほどではないが、心がひたすら、平らかに凪いでいるような気がする。ずっと、こうしていたいと思ったことだって、ある。
「息をすることに、飽いたことはあるか」
ふいにそう呟いた俺へ、周霖は訝しげな声を上げた。
「あァ?…ねえよ、そんなこと。死ぬだろ」
「たぶん、それと同じだ。…俺にとって、ここに来ること」
傍らを見ると、柄杓をぶら下げたままでじっと見つめ返された。あまりにまじまじと凝視してくるので、つい笑ってしまった。周霖は小さく溜息を吐いた。
「…なるほどね」
「お前もたまにはお母上の墓に行って差し上げろ。きっと喜ぶ」
「ああいうのは形だ。単なる入れ物で、お袋なんてもう何処にもいねえんだよ。第一生んですぐ死んだんだ、顔すら知らねえ」
「そうか」
なるほど、そういうものかもしれない。勧めはしたものの、彼が行きたいときに行けばいいとも思う。死者はどこへも逃げない。
「…もし行く機会があったら、俺もついていく。いいか」
すると、大きな手がぬっと伸びてきて、背に垂らした髪の房を掴まれた。やさしい力で、でも、引っ張られて彼の胸に衝突する。だらしなく開いた官服の襟元から周霖の匂いがした。誘惑に負け、鼻をこすりつけると腰に腕が回る。
「当たり前だろ。留守番するとか言ったら、怒るぞ」
「…わかった」
「まったく、許可取ったりすんなよな。…萎えるだろうが」
ぶちぶちと文句を言いながら、彼は再び姶濱の墓を見た。
飽和を迎えたようにしずくを滴らせる石を眺める目はどこか遠い。
片方に俺を抱え、もう一方の手を腰に佩いた剣鉈の束へと掛ける。うららかな午後の日差しを受けて、金茶の髪がきららかに輝いた。飛ぶ鳥の影が空を横切る。羽撃く音。青春宮の裏手にあるから、人通りも喧噪も遠い。現に、今ここに居るのは俺たち二人だけ、他はひたすらに林立する黒い石と墓所を守る森があるのみだ。
「…オレが死んだら」
唐突に、周霖が言った。彼をずっと注視していた俺は相当に驚いた。
妙に穏やかな口調にも、その内容にも。
「オレが先に死んだら、お前は同じように、くるのか」
「…、…え、」
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