(2)



俺の前、「花喰人」のつがいは唐桃の花精だった。彼らは散々に使われた挙げ句、理力を失って枯れていったと聞いている。さながら使い捨ての道具にするような扱いだったと。
胎宮(はらみや)の番人、雲英(うんえい)に聞いた話は耳に新しい。あの緑深い故郷で見た、新しい唐桃の少女は一体誰に嫁いだのだろう。

春の樹木精の中でも、桜、牡丹、山吹、唐桃などは、基本の理力が強いとされる。柳もまた、彼らに続く能力を持つというが、残念ながら俺はあまり優秀とは言えない。
人間と同様、花精にも個体差がある。そして人とは異なり、能力の成長というものがない。外見が変わったとしても、生まれ持った力はそれ以上強くなることはないのだ。目下ぶすくれている煌々の方が、実は俺よりも年嵩で、理力も強いのである。花精の強さは見た目じゃはかれない。

「…聞いてみれば、って言いたいところだけれど」

独り言半分で漏らした呟きを、その山吹精が拾った。じっとこちらを見つめる金の双眸は、彼の気性を物語っているように隙無く光っている。

「大体同じ。っていうか、もっと酷かったかもな」
「酷かった?」
「最後の方びびって声も掛けられなかったっていうよ。つがいを恐れるだなんて、花精にとっては考えられない話なのに」
「……」

恐ろしい、とは思わないのだ。彼の言葉に頷いた。
恐ろしくはない、例え刃を喉元に突きつけられようとも。それも、今はまだ、ということなのだろうか。

「煌々を擁護するわけではないが、…最早、世高さまから直接叱責して頂くしかないのかもしれん」

ぽつり、と万廻が言う。

「力尽くでどうにかしようにも、正直、今の春苑において、あいつに武で敵う者といったら、執政の鶯嵐(おうらん)さまを除けば世高さましかおられん。俺ですら五分以下だ。花護のちからは理力だけでははかれないが、周霖が己より膂力の弱い者の話を聞くとも思えない」
「…まさか執政を担ぎ出すわけにはいかないからなあ。頼めば殴るくらいしてくれっかもしんねえけど」
「……」

煌々の言葉に、俯くしかなかった。
執政が出張ってくるのなら、それは花護の籍を奪われるときだろう。
現執政、鶯嵐と周霖は建礼舎(けんれいしゃ)の同窓生だ。故に処分が甘い、という者もいる。同じ紺旗の出である世高さまが庇っているのだと噂する人々も多い。
どちらにせよ、周霖の傍若無人は普通では考えられないくらいにまかり通っている。下る罰も謹慎程度だ。本来なら、官に留まることすら出来ないだろうに。

「…まあ、くさくさしてもしょうがねえよ。仕事しようぜ」

椅子に座りもせず、悶々と考えて始めてしまった俺を慮ったか、山吹は唐突に明るい声音で言った。ゆっくりと顔を上げると、皮肉っぽく口角を吊り上げる彼と目が合う。

「伎良にはあのくそったれの分まで働いてもらわなきゃな」
「…煌々」
「…かまわない。元よりそのつもりだ」

つがいの責は花精として負うべきものだ。それに、折角景陵に戻ってきているのだ、少しでも御史の勤めを果たさなければ。一向に改善しない関係を嘆くよりも、余程益がある。
椅子の背を引いて腰掛け、筆やら硯やらを手早く用意する。
さてやるか、と深呼吸をしたところで、今度は煌々が俺を呼んだ。

「…なんだ?」

何かを思案するようなしぐさをした後、小柄な体躯は見た目のままの身軽さで、ぽん、と椅子から床へ降りた。

「因みに俺はこうやって起こしてるぜ」

連れに誂えたのか、万廻同様の紺青色の衣袍をさばいて、あっという間につがいの隣に立っている。笑いを滲ませた声に、首を傾げたのは俺で、全身の毛をそうと分かるほど毛羽立たせたのは山犬だった。

「こら、き、煌々!やめろ!!」
「いいじゃんいいじゃん、減るもんじゃねえし」
「うあっ?!」と、野太い悲鳴。

俺が茫と見守る前で、まるで逆戻しでもするように煌々の体が万廻の上に乗る。両膝をゆったり開き股座をがら空きにしていたところを、薄絹にくるまれた細い足が跨ぐ。
いきなり、危険を察知したかのように万廻が暴れ始めた。それも半端無い暴れ振りだ。机の上の墨壺や筆ががちゃがちゃと鳴る。

「や、やめろ!人前だぞ!」
「誰かが見てると燃えるだろ?なあ?」
「……」

毛深い獣のなりをしているから分からないけれど、おそらく全身を朱に染め上げて焦っている―――のだろう、と思う。
牙の植わった口はぱくぱくと開閉し、何とか花精を引きはがそうと藻掻いているが、煌々は太い胴体を己の脚でしっかりと締め付けているらしくびくとも動かない。
そうこうしている内に高い襟へしがみつくみたいに手も回る。少年の顔に浮かぶ笑みは妖艶で、どこか淫蕩ですらあった。薄い口脣がまくれあがって、赤い舌が覗く。

「ん…っ、こらっ…!きら、ら、」

首を固定された万廻は、平生の落ち着き振りを見事に失って悲痛な声で叫ぶのみだ。俺と視線がぶつかった途端に、慌てて明後日の方角へ逸らしている。見てくれるな、と言っているかのようだった。なので、特に止めもせず、卓に広げた書面へ目を落とした。

「こうやって起こしてやると、朝から色々楽しいぞ?伎良」
「…そうか」
「おう。すっげえ楽しい。…そうだ、あいつにやってみたらどうだ。意外と効くんじゃねえの」
「……」

どうだろうか。

「うっ、本当にやめろ煌々…、や、やばい」
「あ、硬くなってきた」

嬉しそうな煌々の台詞をぼんやりと聞きながら、財城見聞、と書かれた報告を指でなぞる。
先のつがいであった姶濱(あいびん)の故郷であり、赴任地であった土地だ。次の代に座を譲り渡す前に、あの街へもう一度行くことはあるだろうかと、そんなことを考えていた。




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