山吹
「いっそ首と引き換えにとも思ったのだが、…根本的な解決には程遠いので」
「…いや、それでは俺の寝覚めが悪すぎる。思い直してくれて良かったよ、伎良」
たっぷりの溜息と共に万廻(まんかい)は肩を落とした。
頭の上についた耳が、彼の心情を表して水平に寝ている。それを見るにつけ、申し訳なさが増した。
「ったくさあ。意味わかんねえし。オハヨウゴザイマス、でぶっころされちゃたまらねえっての」
伝法な口調が山犬頭の花護の横から聞こえる。確かに、と頷くと「お前わかってんのかよ」と相手は口脣を尖らせた。煌々(きらら)。山吹の花精だ。
青春宮の一角、政務監査をつかさどる「都察院(とさついん)」が詰める庁舎に来ている。
二つの机を直角に配置した執務室は、周霖にあてがわれた部屋とほぼ同じつくりだ。
大きな硝子張りの格子窓があって、そこからは青春宮の中庭が臨める。毛足の短い青の絨毯に、春苑の地図。端には打ち合わせ用の小さな卓と椅子、それから刀掛け台がふたつ。
上級官吏に与えられる部屋としては、ごく簡素なしつらえだ。
周霖の執務室との明らかな違いは、部屋の主の机上に山積みの書類があることだった。
報告書に、決裁待ちの文書に、回覧。煌々が小さな桶に朱墨をどばどばと開けているのを見、俺は罪悪感に目を反らした。
山吹の花護、万廻は山犬頭の巫祝(ふしゅく)である。
巫祝とは、鳥獣の頭に人の体を備えた種族で、彼らは自身を、花精の次に庭師―――神に近い存在であると自負している。花護としての能力も高く、巫祝に嫁いだ花精は末永い繁栄を約束されるという。
鮮やかな青の官服を纏った体躯の、襟や袖口から出た部分は細かな獣の体毛で覆われている。三角形の耳に、深い茶色の瞳、濡れた黒い鼻と白い牙。ふさふさと手触りのよさそうな尾っぽ。人と同じ形をした手の爪は、どことなく硬く鋭い印象を受ける。
俺にとって、万廻は初めて逢う巫祝だ。
温厚篤実を体現したような人物で、大夫の信頼も篤い。都察院の中でも古株に入る。
周霖が来てからというものの、しわ寄せは同僚である万廻に悉く行っていて、交わす会話の半分以上が謝罪になっている、気がする。
今日も今日とて、つがいの不在を伝え、あわせて、仕事の手伝いを申し出たところだ。
景陵に部屋を貰っているものの、本来の職務から外れた蟲狩りと、周霖の出仕拒否の所為でほとんど使った試しがない。
俺ひとりが詰めて仕事をしても良いのだが、それであれば万廻の部屋で三人一緒にさばいた方が効率的じゃないか、と、これは山吹精の言。
以来、庭都においては専ら彼らと額を寄せ合って、御史の任にあたっている。
「唐桃から柳になっても、雌から雄になっても、結局やること変わんねえよなあ。ちょっとはどうにかなるかと期待してたんだけどさあ」
蜜を思わせる濃さの黄金の髪に、同色の瞳をした少年の姿で、煌々は忌々しそうに口の端を歪めた。肩に掛かるほどの癖毛をうざったそうにかき混ぜて、頬杖をつく。万廻が小さく窘めたが、彼の悪態は続いた。
「あいつがさぼる分、全部うちのつがいに来ちゃうわけよ。万廻も適当にすりゃいいのに律儀に引き受けるし。あんなやつ、面倒みるだけ損だぜ」
「しかし、それでは世高(せいこう)さまがお困りになるだろう」と真面目な声音で万廻が言う。
世高―――世高さま、は都察院左房の大夫だ。御史の上司にあたる。
なかなか癖のある人間だが、花護としても官吏としても優秀だ。むしろ、世高さまだからこそ、周霖は都察院に回されたのかもしれない。御しきれる人材がほかに居なかった、とするならば、尚更。
つがいの執り成しを鼻で笑い、煌々はどん、と机に脚を投げ出した。
一見、授業に飽いた少舎の生徒みたいな態度だ。でも、実際の彼を知っているから、とてもそんな風には思えない。
元よりの理力に、長い経験を積んだ高名な花精だ。俺よりも周霖につがうには相応しいほどの力を持っている。
「世高さまには悪ぃけど、お困りで大いに結構」
彼は心底馬鹿にしたように言った。
「そんで、周霖本人に直接雷が落ちればいいじゃん。万廻がきちんと片付けちまうから事の重大性がわかんねえんだよ。上は」
「…済まない煌々」
俺は頭を下げて、彼の机の上にあった文箱を数個、抱え上げた。
「埋め合わせは俺が。財城、奉城、眉城の報告は処理できる。他に西方のものがあったら回してくれ」
「…あー…」
じゃ、そうするわ、と彼は言って、それでも納得した様子はないまま、筆を取り上げた。隣の花護はそんなつがいをしばらく眺めた後で、俺の名を呼んだ。
「わるく思わないでくれ。…煌々も俺を心配してのことなんだ」
「…分かっている。確かに、その通りだと思う」
幾ら万廻が優秀でも、彼には彼のやるべきことがある。
それは周霖の尻ぬぐいでは絶対に、ないわけで。
あいつを叩き起こしてここまで連れて来られたら良いのだけれど、朝の剣幕を考えると正攻法では難しそうだ。
俺の仕事場となりつつある、打ち合わせ用の小卓に文箱を積みながら、思わず呟く。
「唐桃は…どうしていたんだろう」
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