(9)



「それなりに年を経れば、冗談だ。やっぱり嘘、今のは無し―――それこそ大嘘だって分かっててもな、一言をよすがに平静を取り戻せる。だけど、お前みてえな、年が三桁いってないようなやつは覿面だ。あっという間に頭に血が上っちまって、どうにもなんなくなる」

正しいことだと、思ったのだ。それ以外に選択肢はないとしか、考えられなかった。
俺のちからで煌々を倒せる可能性は皆無だと、怒りに身を任せながらも判断は下せていた。つまり、自分の命は二の次で、とにかく飛刀の一撃なりとも喰らわせることが最優先事項になっていたのだ、あの瞬間は。
淡白だ、愛想がないと揶揄されるばかりの俺にも、狂気に近い感情の奔流が眠っているのか。

「確かにな」額に手を当てて深く溜息を吐いた。「…すまない。本当にとんだことを」
「謝るこたぁねえ。別におかしいことじゃない、花精なら誰でもそうなる。…伎良があんまり落ち着いてっから、俺もつい調子に乗った」

立ち上がる素振りがちらとも見えないので、案じたのだろう、彼は再び背を曲げ、俺の額へ手を押し当てた。熱を測るのに似た仕草は、近付いた気配とぼやけた肌色でそうと知れた。「体温、すげえ低い」と弱り切ったように呟いた後、小柄な体が離れていく。
すべて、目で追っていたから分かったことだ。

(「…こういうことか」)

飛刀を放とうとしたとき、煌々は己が手でもって俺を止めた。花精特有だとされる低い体温も、掌の重みも、ほんの少し前は膚に伝わっていたのに。


今はなにも、ない―――なにも、感じない。


(「感覚がない」)


誰かが囁く。
始めに理力。次は目。そして声。からだ。
どんどん、失われていくの。わたしが、わたしのかたちを保てなくなっていくのよ。

その聾(こえ)は、かつて俺の前にあった柳の言葉にも、また、この執務室で同じ景色を眺めていた筈の唐桃のものにも思えた。
慄然としながら、再び首元を探る。今度は怪我の具合を看る為じゃない。花紋がある辺りをこすると、これはちゃんと触感があった。一時的な現象なのだろうか。それとも、警告の示す「始まり」なのか?
考え込んでいたら、こちらも思案気にしていた煌々が、隣に腰を下ろしたところだった。長座をし、ぼんやり前を見ている。俺の混乱に気付いた風はない。

「焦ってたんだ。つがいを変えるのも、花精の性に逆らうのだって、お前自身にどうにか出来ることじゃねえってのに。
もう時間がない、そのひとつきりで頭がいっぱいになった。…らしくねえよ」

周霖よりも幾分か濃い色合いの髪毛がみるみるうちに鳥の巣になっていく。諸手で自分の頭を引っかき回すと、山吹はがっくり項垂れた。

「煌々…」

――俺はな、伎良よ。もう我慢できねえんだ。同胞が無為に枯らされていくのを傍観し続けるのは、もう限界だよ――

「…ずっと、考えていてくれたんだな」

二人して(発端は俺だが)暴れた所為で、執務室は大した惨状だ。
窓の硝子は枠を残して跡形もなく散り、帳は覆う役目を果たせず、旗のように翻っている。卓と椅子は細々した調度品と一緒くたになって隅で山積みである。執務机の上にあったなけなしの書類は、「なけなし」どころか完全に消失していた。後で探さなくては。
それでも、青い空、緑の木々と、その下に広がる景陵の街並みはきっと、変わらない。

永遠の微睡みとも呼べる平和の中に、大勢(たいせい)からすれば取るに足らないような怒りや、嘆きや、憎しみが内包されているのだ。
人間のだけじゃない、花精のそれも、また。

「ありがとう」

するりと口を突いてでた言葉に、煌々は複雑そうな表情をみせた。脚を胡座に組み直し、そこに肘をついて斜め下から俺を見上げる。



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