(21)



狂乱の時間が過ぎ、俺がまともな思考らしきものを手に入れたとき、太陽は既に天頂を降りていた。世の人間が汗水垂らして働いている時刻に一体全体何やってんだ、俺は。
そして、このクソッタレは。

痛む体とぼんやりした頭を抱えて寝台の背に寄りかかる。皺の寄った敷布と隣でぐうすか寝ているあほを他にすれば、部屋の様子は目覚めた時分と変わりない。

「……あー…」

我ながら、すっげえ声だ。喉を押さえつつしばらく発声を試した。酷い風邪でもひいたみたいだ。…あんだけ騒げばな、まあ、そうなるよな。


ずるずると半身を起こして視線を彷徨わせる。

屋敷があまりに広い所為なのか、物音らしきものはほとんど聞こえない。すると、内装の雰囲気も相俟って、時間の流れと隔絶されているような気分に陥る。金属の角留めをされた棚の上、こつ、こつ、と針を回す時計を見つめて、単位化されたそれを思い知る。

もし叶うのなら、風呂に入りたい。顔も洗いたいし、腹だって減った。小便もしてえな。
うちひしがれるのは後からだって出来る。悲劇の主人公みたいに嘆くより、俺は生物的欲求を満足させたい。

「…おい」

そんな些細な願いさえも邪魔しやがるのが、燕寿という男だ。

「てめえ、…起きろよコラ」

腹のあたりがずっしり重い。やられた後遺症とは別の原因だ。

見下ろさなくても分かる、クソ花護が俺の胴体を抱え込むようにして爆睡しやがっているからである。なんだこれ。絶望の先、ってのを見たような気分だぜ。

「くそ、この起きろって言ってんだろ!!」

つるりと剥き身になっている肩を揺さぶる。かなり乱暴に揺すったはずなのに、男に起きる兆しは皆無だ。
意識を失いたいのはむしろ俺の方なのに、昨晩しっかり睡眠を取った上、生来の性分で二度寝が出来ないときた。骨の髄まで染みこんだ平民根性が仇になるなんて、これをとほほと言わずして何と言う。

「おーい、起きてくれよお。起きなくてもいいからせめてどいてくれよ…」

うん、駄目だ。艶やかな濃さを誇る睫毛はちらとも動かない。
やることやって、すっきりしたのか実に暢気なもんだ。俺に殺されるかも、とか露ほども思っちゃいないんだろうな。まあ、剣があろうが槍があろうが、返り討ちになること請け合いだけどよ。

燕寿は、白い敷布へ恵まれた体躯を気持ちよさそうに伸ばし、俺の下腹部を枕代わりに、昏々と眠っている。あの豪奢な縫い取りを施した赤い上着は、無惨にも床へと放り捨てられていた。俺を抱くときには着ていた癖に、寝る段になって、襟や胸元の釦を引きちぎる勢いで脱いだのだ。そこで精神力が尽きたらしく、ぴったりした下穿きを身につけたまま、もそもそと上掛けを被っていた。薄地の布団は長い両脚の形に沿って凹凸を生んだ。

僅かに黄味を帯びた滑らかな膚に、御簾で和らげられた午後の陽光が縞模様を作っている。凄烈な眼差しは黒々とした睫毛に隠され、薄く開いたあわい色の口脣は穏やかな吐息を漏らすのみだ。

「……」

つい時の経つのを忘れて奴の全身を眺めてしまう。
こうして黙って転がっていると異常なまでに整った容姿の所為で、とんでもなく精巧な人形に見える。昔話に言う、玉を削り、絹布で拭き、輝石と真珠をはめ込んだ人形ってやつだ。
幼い頃神殿で見た、壁画の御使いが現世に抜け出てきたようにも思える。隅々まで張り詰めた鋼のするどさがなければ、花精と言われても頷くかもしれない。
最早惰性で奴の肩を揺らしながら、そんなことを考えていたら、戸口に人の気配が立った。

「…遅くなり申した」
「あ、」

真白の長い髪と、薄い黄緑の目をした美形が――こちらは本物の花精だ――、仏頂面を貼り付けたままで軽く礼をとってみせた。

「…清冽さん」
「おはようございます、と言うには既に遅すぎますな。…失礼を致した。わたくしとしたことが」
「はあ、いえ…まあ」

どうでもいいんですが、と返事をしたらあの冷徹な視線で射殺されるに決まっている。
俺は慣れない愛想笑いを浮かべ、平気です、と首を横に振った。
梔子の花精はそれを当然のように受け(あるいは彼こそどうでも良かったのかもしれない)、薄氷を織り込んだような長衣の裾を翻し、寝室へと靴先を向けた。例によって、白い盥には剃刀と、湯を入れた壺、石鹸などが入っているようだった。

「燕寿さまは…、ああ、やはり寝ておられるか」

寝台の脇にある小さな卓に道具を並べ、盥に湯をあける。手つきは滑らかの一言に尽きる。まるで生業にでもしているみたいだ。

遠慮をしたところで聞いちゃ貰えないので、大人しく固く絞られた布巾を受け取った。
ほこほこと湯気をたてるそれが、今はとても有難い。迷わず顔を押し付け、ごしごし擦る。体も拭けたら重畳なんだけれど、流石にこのひとの居る前で堂々とは、できない。

「…こいつ、全然起きないんですけれど」

それよりも、だ。
格段にクソ花護の扱いになれているっぽい清冽さんが来たのだから、ここは頼むしかないだろう。一刻も早く燕寿の野郎を叩き起こして貰って、俺の上から退かせていただきたい。何が嬉しゅうて自分を襲ったやつの眠りを守らにゃならんのだ。

「清冽さん、お手数ですが起こして貰えないでしょうかね。俺、便所行きたいんです」
「まあ、無理でしょうな」
「ですよねえ」

…うん?

「へ?…ええと、無理って…」
「ですから、自ずから目覚めぬ限りは、決して起きませんでしょう、と」

申し上げたのです。
慇懃無礼に言い放った白皙を、呆然と見上げた。




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