(9)




「おい」
「うわっ」

肩に手が掛かって、抵抗する間もなく押し倒される。二人分の体重を受け止めて、寝台がぼん、と跳ねた。再び、一面の桔梗の画が目に飛び込んでくる。それを背景にした、氷のような美貌も。

「話してんだから、こっち見ろ…、」

鍛えられた体躯でもって、俺に覆い被さる体勢になった奴はそこで絶句した。俺も絶句した。いきなり襲ってくんな阿呆が、という文句は、最早馴染みとなりつつある恐怖と、驚きと、殊の外近い距離にある美形の迫力に負けて、見事に喉で詰まった。


ぬばたまの色をなした髪が鼻先でさらさらと揺れている。黒い切れ長の目は大きく瞠られていたが、そのうち目眦が吊り上がり始めた。
後頭部を枕に埋め、硬直したまま奴を凝視していたら、無遠慮に顎を掴まれてしまった。猪すら軽く撲殺できる花護の力だ。上にのしかかられて、急所を押さえつけられたら王手詰みも同然である。

「…迦眩(かくら)、お前…」
「ひっ…!」

腕を突っ張って燕寿を退けようと試みたが、敵う筈もない。突き出した両腕の先、手首を一纏めにされて枕に縫い付けられる。奴が使ったのは片手のみ。ばたつかせた脚は燕寿のそれで抑え込まれてしまった。既視感。食いしばった口脣の奥で、歯がかちかちとぶつかる。

(「…怖ぇえんだけど」)

悔しい。悔しいが、こわい。またひんむかれて、犯されるんだろうか。
一方的な力の行使に、口惜しさと―――再生されるおそろしさで、水面をわたる波紋のように体じゅうが震え出す。無防備に腹を晒し、しかも、身に纏っているのは「あのとき」と比べものにならないほどの、薄い衣袍だ。否が応にも、忘れたい記憶ばかりが甦る。

「いやだ、…はなっ、離せ!…くそ、離せって言ってんだよ!」

格好よく唾でも吐きかけられれば最高なんだが、いかんせん相手のツラが良すぎる。この鉄壁の美形にぺっとできる奴がいたら是非尊敬の礼を捧げたいぜ。空戒あたりならやってくれそうだけれど。あいつは中身外見も男前だしな。
ああん、俺のお人好し!馬鹿!マジで火の玉をぶつけるほか、逃げる手段がない。だけど、こんな状況じゃ集中できねえ!

「…泣いたのか」
「は…?」
「泣いたのか、って聞いてんだよ」
「―――!」

乾いた指が目の際を辿り、頬をなぞっていく。思わず息を呑んだ。
燕寿の指摘の通り、確かに俺は泣いていた。涙の跡が残るほど大泣きした覚えはないが、もしかしたら、寝ている間にぼろぼろとやっていたのかもしれない。

(「失敗した…」)

顔も洗わず、蒲団の中でだらついていたのが仇になったんだ。乾いた涙はともかく、目蓋の腫れとか、目眦の赤みなんかでばれた可能性はある。手は使えず、咄嗟に首を捻って、顔を肩口へと埋めた。それすらも、制された。痛いくらいの力で正面を向かされる。お前は自分の馬鹿力にもうちょっと自覚を持て!

「誰だ」

低い、這いずるような声。背筋に怖気が奔った。お前がお怒り遊ばされている理由がさっぱりわからん。わからんが、怖い物は怖い。冷静さを装うなら完全に騙してくれ、とも思う。
碩舎ですれ違うだけ、時折見掛けるだけだった燕寿という男は、常時どいつもこいつも馬鹿ばっか、みたいな顔と態度をしている奴だった。取り巻きですら空気扱い。妹の部屋を訪ってきたときもそうだ。こんな風に感情的になる野郎とは、到底思えない。

とりあえず貝になることを選択した俺の頬を、奴は手の甲ですりすりと撫でる。未だ目眦に滴が残っているのだと言うように、涙袋にそって拭いすらした。なんだ。これは新手の拷問か。

「誰が、泣かせた。使用人か。………清冽か」
「へっ、せいれつさん?!」
「まさか父、…いや母か。…母上ならありえそうなことだな」

あかん。冤罪が量産されていく。慌てて首を振ろう、としたが、がっちり掴まれているので推定変顔になっただけで終わった。

「ち、ちがう。誰もそんなことしてない」
「だが事実お前は泣いた」
「う…」
「嘘は赦さない」と、薄い口脣が孤月の形に歪む。「お前は、…俺のつがいなのだから」
「―――…ん、だって…!」

なんだってんだこらァ!好きでそんなもんなったんじゃねえんだよクソ野郎!


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