爪研ぎ



ぱちん、ぱちん。

乾いた音が、部屋に響く。それ以外は無音だった。
白い壁の部屋。微睡む死者の絵画はふたつ。オリーブグリーンの寝具。頭上の蛍光灯が二人の影を、身体のすぐ下に留めている。

僕は不必要に息を詰めていて、白柳の、普段は前髪に隠された額をただひたすらに見つめていた。
やわらかなヘアバンドで髪を押し上げ、風呂上がりで湿った後ろの毛を首のあたりまで垂らした彼は別人のようだ。女性のよう、とまではいかないが中性的ではある。七分袖で、胴まわりがゆったりとしたトレーナーに、細いシルエットの綿パンツ。黒い生地に包まれた長い脚は月並みな感想だけれど、モデルみたいにすらりとしている。

「…そんなに見られると」
「…へえっ?!」
「照れるなァ」

俯いた体勢だからか、彼の声は幾分か低い。感情の乏しい、棒読み状態の声音と台詞のギャップが妙だ。
何より、突然喋りかけられたものだから、僕は大層びっくりした。思考を占めていたのは、現状への戸惑い、およびリラックスしきった(彼の家にいるのだから至極当然の話だ)友人の姿、そのふたつきりだったから。
驚きのあまり、ゆるく掴まれた足がびくんと震える。白柳が何事かと顔を上げるくらいに。

「どしたの」
「えっ、いや、あの…」
「あ、俺、痛くした?」
「…いや、」と僕はぼそぼそと返した。「大丈夫…」

「いきなり動くと怪我させちゃうからさ。…曲がりなりにも刃物だしねぇ、これ」

そう言って彼は、掌に乗るほどの、銀の爪切りを僕に見せる。金属は艶やかに光を反射する。その上で僕の顔が複雑な形に歪む。
忠告に粛々と頷くと、友人は再び作業に戻った。ぱちん、ぱちん。軽快な、乾いた音が呼吸と同じタイミングで響く。彼は徹った鼻筋を下へ向け、僕はそれを見つめ続ける。


――白柳に、爪を切られていた。


普通の「友人」が、果たして爪を切ってくれるかどうか、その行為の正当性についての如何は、右に置いておきたい。
仮に問うひとが居たなら、白柳はおそらく、大人も舌を巻くような弁舌で説明してくれると思う。一方で僕自身はあまり言葉をもたない。そして彼に説明責任を被せたくはない。


勉強を見てくれる、という誘いに乗っただけだった。それが導入だった。
気がつけば日はとうに落ちていて、遮光カーテンがのけられるまで、愚かにも僕は気づかないでいたのだ。
学年上位の成績を堅持する白柳は、教え方もとても上手だ。日頃から、彼の周囲には教科書片手のクラスメイトがたむろしている。点数だけなら首席である糸居の方が上だけれど、説明の巧さは白柳に軍配があがるらしかった。今ひとり、優秀者リストの常連を聞けば、久馬先生は分からないと叩くからね、と眼鏡の友人は呆れながら明かしてくれたものだ。
彼らとは比べ物にならない順位をさまよい続けている僕は、そんな教え上手のお陰で、珍しくも真剣に課題に取り組んだ。その結果が、これ。


確かめた携帯の時刻に、さらに慌てて帰ろうとしたところ、模範的なノックの後で家令さんが現れた。
国営放送のアナウンサーを思わせる、明確な発音となめらかな声で彼は言った。ニュースの開始を告げる挨拶さながらに。「夕食の支度ができています」。

『だってよ』

白柳は僕が断るだなんて、毛ほども考えていないような顔で笑うのだ。
夕食が終わる頃、家令さんの挨拶は風呂の準備を告げるものとなり、僕が暢気に動揺している間に自宅の母へ連絡がいってしまっていた。携帯電話を耳に、手慣れた雰囲気で喋っている友人を、止める暇はなかった。

『すっごい恐縮してたよ、真赭のおかーさん』
『えっ、あ、あぁ…』

そりゃそうだ。だって母は、日頃から僕の交遊関係の乏しさを嘆いているんだから。そんな折りに白柳みたいな、優等生然とした相手から電話があったら驚くし、――喜ぶだろう。突然の外泊をうっかり承諾するくらいのことはしかねない。すっかり観念してバスタオルを受けとる。その上に乗せられたパジャマに目眩を覚えた。なし崩し。またしても、僕は。




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