(8)



数歩もいかないところで、背後からけたたましく扉が開閉する音、それから、…こちらへ向かって走ってくる足音が。え、だの、あっ、だの言ういとまもない。

『ひっ!』
『来い!』

振り向くか振り向かないかの内に襟首が掴まれて、気付けば執務室に逆戻りだ。
猫の仔にでもするかのような仕草で放り出された恬子が目にしたのは、さきほどまでは至って元気だった筈の柳の、変わり果てた姿だった。


『―――ぎ、伎良さまっ!!』


部屋の中央で、着物の帯を乱した伎良が仰向けに倒れている。
色鮮やかな羅衣が萎れた花弁の態で広がり、袖からはしろく細い手、裳の裾から、銀の輪で飾られた足首が零れている。青や緑の薄絹は緩やかに絡まって床へ紋様を作る。不吉に、うつくしい光景だった。

『何事があったのです、周霖さま!』
『うっせえよ、がたがた怒鳴るな!!』

恬子を解放したなり、周霖は彼の上半身を己の膝へ抱え上げ、衣袍の、腰のあたりをさらに緩め始めた。花精の顔は紙のように白く、呼気は酷く荒れている。慌てて脈を取った。弱い。力なく開いた碧の目に、必死に語りかける。

『う…、』
『…伎良さま、お気を確かになされませ!!…って、』

―――酒臭い。

口の端が濡れている。鼻を近づけて嗅ぐまでもなかった。机上に散らかっていた文書を団扇にして、はたはたと仰いでいる周霖を、ぎっと睨め付ける。男の顔色も些か悪かった。悪戯を見咎められた子どものようでもある。屈強な体躯の花護がそうしているさまを面白がっている余裕は無かった。こんな時でもなければ、指をさして大笑いできたのだが。

『…御史、あの酒、…呑ませましたね』
『万廻とこの山吹精は普通に呑んでた』

ぼそ、と返ってくる言葉は力無い。

『煌々(きらら)は特別です!あれは慣れているのです!ええい、団扇は結構にございます、水をお持ちくださいませ!…夕筒、夕筒ッ!!』

結局、水を大量に飲ませて酒気を飛ばし、翌日はたっぷり休ませて大事を逃れた。いま少し容態が悪いようであれば、花精たちの故郷であり、揺籃でもある胎宮(はらみや)へ帰すところだった。

いくら医道に携わる者とは言っても、こうした花精の処置に慣れている者が
多かろう筈はない。まともな花護であれば、己のつがいに酒を盛ったりはしないからだ。仕方なしに、師匠たる都察院右房の医士に頼んで、あれこれと面倒を見て貰った。恬子の、――そしておそらくは伎良にとっても、おぞましい記憶だ。




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