(5)
あっ、と少年が小さく叫ぶ。正気に返った恬子が見たものは、だらしなく着込んだ官服の袂に仕舞われる大福三つ。卓の上に広げてあった、戦利品はあっという間に消えていった。
中身が零れるくらいの勢いで目を瞠る。何を考えているんだ、この男は!
「…、ちょ、しゅ、周霖さま!なにするんですかッ!」
「あ?没収だ、没収」
「はあ?!意味分からないんですけれど!」
「それが、お前が馬鹿だって証拠だ」
ここに来てようやく立ち上がり、早くも踵を返そうとしている周霖へ追いすがる。握り拳を作ると右手から軟らかい感触が伝わってきた。慌てて振り向くと、心得たように夕筒が手を差し延べてくれていた。
「夕筒、これ、はい!死守して!」
「命に代えましても」
「で、ちょっと待って下さいよ周霖さま!これまでの遣り取りと、御史のなさりように何ら関連性が見出せないんですけれど」
言い募りつつも、あてはひとつ思いついている。
彼がこういう行動をするということは、即ち。
「…長ったらしい説教が必要みてえだなあ、」
偽悪的な笑みを浮かべた精悍な顔は、本性さえ知らなければ見惚れるほどの男ぶりだった。額から流した金茶の髪は、獅子の毛並みにも比せる豪奢なもの。鈍い色の瞳は黒目との境が杳(よう)と知れず、一度視線が合えばずるりと呑み込まれそうになる。
彼の眼に明かな力が籠もって、恬子は後退った。これまでは言葉遊びだった。今は違う。心ならずも売る形になってしまった喧嘩を、周霖は、「軽く」買ったのだ。
「…ぃ、」
恬子さま、と夕筒が「声」を送ってくる。焦った、心配に充ち満ちたそれ。結びつきの深いつがい同士が行える精神感応だ。
(「大丈夫…」)
かろうじてそう返す。膚の産毛が残らず逆立っているのが分かる。柳の花護にしてみれば単なる座興だろう。そしてこの男はお遊びの力の行使で、恬子を壁に叩きつけることぐらい訳が無い。
「は…、はあ、っ」
触れた、金属の冷たさに重ねてぞっとした。反射的に剣鉈の束へ手が伸びていたのは本能の動きだった。額に脂汗が滲んでいる。口腔がやたらに乾く。背が僅かに丸まった構えの姿勢は、お世辞にも上司に対する格好ではなかった。床へ映り込む己の影はさながら、臆病を隠して威嚇する猫で、相対する男のそれは、本来の身の大きさから何倍も膨れて見えた。
「―――執務時間に与えられた席にもおらず、暢気に菓子をむさぼり食って、それが春苑の官吏か。百官の手本となり、模範たるべき都察院の人間に、怠慢が赦されると思うたか」
決して大きくはないが、雷音のように響く声で彼は続けた。
「貴様の不抜けた腰にぶら下げた剣鉈は何の証だ?黒金と責、誉れで打たれた代物だろうよ。その、それが貴様自身の首だと忘れたか?答えてみろ、…乃木坂恬子」
「…――」
ぜいぜいと肩で呼吸をしながら、己の本名を聴く。のぎざかやすこ。呼ばれる機会なんて、数えるほどしかない。記憶にあるのは国試のときと、執政から剣鉈を授かったとき。そして夕筒が嫁した娶せの儀のときである。理力の強い者は名を呼ぶだけで相手を縛る。現況が、まさにそれだった。垂れた汗が顎を伝って落ちていく。ぬるくて、気持ちが悪い。貧血でも起こしているのか、頭の芯にある恐怖を残し、意識がぼうとし始める。
「………とまあ、こういう長広舌を期待してたんだろ、テメェは」
膝の裏に楔が穿たれたように、身体がかくん、と折れた。床に座り込んだ恬子に、つがいが駆け寄る。肩に乗る小さな掌の主が分かっても、激しくなる心臓の動悸は止まらない。
「…はあ、はあ、はあっ…」
傾いた視界にあるのは床に立つ一対の脚と自身の白い前掛けだけだ。
「なんだそのザマは。だらしねえ」
先ほどまでの気迫が嘘のように霧散している。周霖は大柄な身体を竦め、へたった女につまらなさそうに舌打ちをした。恬子の数倍はある剣鉈の束へ無造作に手を置き、ばりばりと首根を掻く。
「テメェがやれっつったんだろうがよ」
(「…言ってないし…!」)
「まあ、そんな次第だ。言葉が分かるなら、とっとと席戻って働けよ藪医女」
非番の時間が終わったとすれば、間違いなく周霖が話しかけてきたからだ。彼も承知の上で叱責をしたのだろう。流石の恬子でもその点から反論する度胸は無かった。なので、かろうじて言い返したのは。
「わ、わたくしは藪ではありません…!」
恐れで押し出た涙を気合で留め、睨み上げた医女を、彼はやはり、吐息で嘲笑しただけで背中を向けた。
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