(3)
「…そのように見惚れたままでは、百花王のお顔に穴が空きますよ」
「あ、」
「墨を、戻します。その頁は書き直さねばなりますまい」
同じ顔が、記憶とずれた、底冷えのする声で喋った。
正気に返って手元を見ると、整えていたつもりの筆の穂先が、紙をすっかり汚している。
「申し訳ありません、千里さま。すぐ…」
慌てて新しい紙を敷き、駄目になったものを手本に書き直しを始めた。そっと硯が押しやられる。
失態を恥じるあまり、若白髪が混じった頭を掻きむしりかけて、これも窘められてしまった。人前ではやめろ、と妻も口を酸っぱくして苦言を呈していた、国房の悪い癖だ。
「ふふ…、は、あははは…」
「…せんり、さま、」
「…?」
ころころと軽やかな青年の笑い声に、首を傾げる。隣の緋鞘は、人形のように整った顔へそうと分かるほどの不機嫌さを滲ませており、正面の百花王は袖を口許に当てることもせず、大笑いだ。目眦に涙をいっぱいに浮かべまでしている。
「…本当に、花護と花精の縁とはよく出来たものだと、思ったのです。
春御方のお導きをうつつに見るかのようで。緋鞘は、幸せものだ」
「お褒めにあずかり光栄至極」と、緋鞘。…ちっとも嬉しく無さそうである。
黒檀の椅子からつと立ち上がる姿を仰ぐ。笑いながらも、千里の表情は真面目だった。桜の花片を薄く織りだした衣を引きつつ、窓辺へ寄る。
彼の眼下には緑濃い景陵の街並みが広がっている。
四つの庭の中で最も富み、庭師の力の強さと抱える花精の数で、その繁栄を約束された庭都。
秋廼に比べて、古い建物が目立つのは、荒廃の少なさ故だ。初めて訪れたとき、苔むした城壁が延々と続き、半円形に突き出た小城―――甕城(おうじょう)の上へ、壮麗な楼閣が建てられている眺めに感銘を受けたものだった。
「似た者同士もいれば、全く性質を逆にするつがいもいます」と、百花の王は言う。
「花護の手をとり、思念を巡らして、…まさか、と思う花精の顔が浮かぶこともある。実際につがわせて、早くに枯れる花もおりますが、それでもそのときは、彼の相手が最上なのです。私よりも、余程、当の花精の方が分かるでしょうが」
「…足りないところを埋めあうって感じなんでしょうかねえ。…または、割れ鍋に綴じ蓋か」
思いついたまま、人間のめおとを喩えた文句を口にすると、横の緋鞘が額に手を当て、がっくりと俯いていた。
(「…うっさいよ」)
偉そうに言ったところで説得力皆無であると、重々承知の上である。お前もぶち壊した張本人のひとりだろ。内心でなじる。
匂桜精は目をまん丸くさせて、そして、頷いた。
外見だけは、国房よりも年若に見えた。二十の年にも届かない容姿だ。けれど、彼は、ずっと長く生き、数多の人と花精とを結びつけている。
「ひとの身ではない私が、夫婦の繋がりや、―――愛情を語る資格はないのかもしれません。
でも、…おそらくは、」
国房殿。
私はそう願ってやまない。
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