(2)



『我が皐月の族を絶やすおつもりか』

秋廼に戻りたいのだが、と持ちかけたときの、開口一番が、それ。

『…貴方は、覚悟を持って春苑に来たのではないのか。貴方は、花護か、それとも秋廼の官匪なのか?
人の取り決めた賤しい位に縋り付き、花護本来の職務を疎かにすると、…そう仰る』

花護で、官である前に、明日の米を気にするひとりの人間だが、と正直に言える筈もなく、これまた取りあえずだから、と宥め賺して秋の庭へ連れ帰った。
浅慮であったと悟ったときには、後の祭りである。


古来から、ものの本でしばしば取り上げられている、恐怖の「嫁・花精の諍い」が勃発したのだ。


『太極の相が顕れた、ということは、即ち、秋廼との縁は失した、ということ。花護として、春へ遷るべきかと』

―――そう、冷徹に緋鞘が言えば。

『このひとは、秋廼の官です。花精として、あるじに従うのが当然ではありませんか』

―――妻は言下に言い放つ。

『…それともなにか。そなたは、私に花護の身分を捨てろと言っているの?国房が春苑へ赴くのなら、妻たる私を置いては行けない。けれど、私もまた、政を支え、つがいを持つ身です。そなたの都合にばかり、合わせられるものか』
『都合を申しておるのではない。…自明のことを、お話しているだけです』

皐月の花精は、怒り心頭の妻と相対しても、ちらとも動揺しなかった。
結婚して四年、一度たりとも太刀打ち出来なかった国房を根性無しとそしるかのように、平然と反論を続ける。

『官吏など、春苑でも出来ること。それよりも優先されるのは、花護の責だ。貴女様がつがいを持つのと同じく、国房さまの手には皐月の行く末が掛かっている。
仮にも花護であると言うのなら、おわかりでしょう』
『仮にも、ですって?!…なんという不敬!あなた、何とか言ってやってください』

情けなくも気圧されていた夫は、ようやくお鉢が回ってきたと口を開きかけ(しかし「喧嘩を止めろ」の次に何を言うとも決めていなかった)、


―――そこで、停止した。

国房が喋り出す前に、花精独特のひんやりとした手が、くたびれた袍の袖を取ったのである。

『彼は、私を選んだ。私も、また』
『あなた…!』


『…国房さま。私のいのちを握っているのは、あなただ』


―――ねえ、そうでしょう、と。
悪魔の囁きとするには、あまりに落ち着いて、淡白な。しかし僅かに、…ごく、僅かにだけれど、縋るような色が滲んでいて、自分は、それに気付いてしまった。

…気付いてしまったのだ。




秋廼への帰参は、妥協策を探しに行く為だった。筈が、結局そんなものは存在しないのだと、確かめて、終わった。

夫婦の関係を続けるには、自分か妻のどちらかが、花護を辞める必要がある。官位からすれば辞めるべきは己だ。だがそうなれば、娶ったばかりの緋鞘を春苑へ帰さねばならない。彼のつがいは、国房しかいないと分かっているのに。

妻の花精を春苑へ連れて行けはしないし、保たないと知っていながら皐月精を秋廼に住まわせることは躊躇われた。幾代にも続くいのちが、寿命を縮め、目の前で枯れゆく様を傍観するなど、愚鈍な自分でも、できない所業だ。


結局、国房は妻と別れた。
彼女は数年経って後、別の花護と夫婦となったそうだ。国房たち二人の間に子はなく、互いの家も本人が決めたことであれば、と干渉はしてこなかった。


春苑に行く前に、もっと真剣に身の振り方を話し合うべきだったのだ。
つがいを失い、焦りに負けて慌てて国を飛び出した。その報いが、自分と妻の関係を駄目にした。
国房は愚かではあったが、あくまで花護だった。一度連れ添うと誓ったつがいを、無碍に扱えやしない。誓いの言葉を口にしたとき、道は決していた。


遅きに失した、とはまさにこのことだ、と春苑へ向かう馬にゆられながら、ぼやく。嘆息は自然、深くなる。

『…そうでございましたねえ』

謳うような、滑らかな男の声に、国房は隣に並ぶ騎馬を見た。
赤髪の花精はゆったり微笑む。

娶せの儀から数月、口数の少ない彼がたまさかを開いたと思えば、国房の不器用さ加減に呆れてばかり。他は大抵、ぼんやり窓の外の景色を眺めていた。

ひとえに慣れない環境がそうさせていたのだろうが、草花の花精に比べ、樹精は気位が高いものが多い、という。
国房の前のつがいは至極素直な性の雌――妻とも円満な関係を保っていてくれた――であったから、どう接していいか、困惑することしきりだった。


その緋鞘が、ひたと此方を見下ろしている。
紅紫の瞳はきららかにひかり、国房を釘付けにした。


『けれど、最早、遅うございますよ。―――あなたはもう、わたしのものだ』







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