(1)



めくらえだ、と友人が呟いた、
――そう、聴こえただけ、なのだろうか。

咄嗟に意味を図りかねて黙したまま彼を見やった。
薄目の視界に映る仄白い貌は、近い距離ながら輪郭をけぶらせていた。寝転がった影は真赭を通り越して、鼻梁を庭先へと向けているようだ。硝子とカーテンとが隔てる外の世界へと。

閉じた部屋は、しかしまったくの暗室というわけでは無かった。

日が、そのカーブした先端を顕す少し前、空が黒と紺と群青、僅かな金色に染め上げられる時間。
鳥たちは昼の主を呼ぶため盛んに鳴き交わし、いつも我が物顔の人間はといえば、時折、おとなしめに車のエンジンを吹かして走っていくのみだ。朝まだきの世界においては、隣に居る友人の姿すらぼうと映る。
全てが遠かった。閉じたフランス窓と定まらない意識の所為だけじゃない。人の手に時間が渡されるまで、まだ少しの猶予があるのだ。


薄く開いた唇の、内側をそっと舐める。舌がふれた瞬間、そこがじんと痺れるように感じた。
何かと贅を尽くした彼の家だ、部屋の室温や湿度を保つくらい造作もない筈だった。
けれど、己の口は縁を毛羽立たせ、喉も渇きを訴えている。飲み下した唾液に、要求はさらに強くなる。尤もこれは、散散に喘いだ故かもしれない、その可能性に思い当たって陰鬱な気分がいや増した。


真赭は目蓋をかたく閉じ続けている。


水差しがローテーブルの上に置いてあったが、手を伸ばすことさえ億劫だ。何より、瞑目している自分が、実際は、覚醒状態にあると悟られたくない。平和裡にこの場所から出て行ける時間になるまで、鼠か、灰虫のように息を潜めて待っていたかった。

横たわる真赭の胸には光の帯が巻かれている。閉め損なったカーテンが隙間を生んで、其処から弱光が漏れていた。(我ながら頼りない呼吸だ)、秘やかな呼吸をするやわい肉を貫き、帯は、薄いながらも扉まで進んでいる。
制服の下の、デザインシャツはだらしなくはだけられたままだ。膚が露わなのはそのためだった。もちろん、この部屋の扉を開けた時分は、ジャケットを着込み、几帳面が過ぎるほどに、シャツの第一ボタンまでをしっかりと止めていた。今ではもう、見る影もない。

隠していた痕は随分薄くなっていた筈だった。擦っても洗っても消えない情交の証。着替えのたび、厭でも見ざるを得ないそれが消えるのを、後ろめたく思いながらもずっと待っていた。けれど結局、上書きされてしまった。新たなしるしの下に真赭の希みは被われた。こうして瞼を下ろしていても、人目で分かるほどの濃さと多さで散る紅色をありありと思い浮かべることができた。
何事もないように振る舞おうとすると、友人の行為は度を過ぎて激しくなる。言葉でそうと言われたことはないけれど、行動は雄弁だった。彼は、隠すことの無意味さを、言葉ではなく行いで示しているのかもしれなかった。

肋骨が微かに浮かんだ貧弱な躯がゆっくりと上下に動く、それをひたすらに数えていた、―――白柳が口を開くまでは。
唾を飲み込むとひりついた咽喉が痛み、眉近くの筋肉が強張った。躯の内部から乾ききっている、と思う。

「盲枝。知らない?」

衣擦れの音。覗き込んでくる気配。
身を起こして此方を見下ろす白柳は穏やかな口調である。やはり起きていた、あれは空耳ではなかった。そして彼はずっと、こちらへ話しかけていたのだ。

いつ、目を覚ましたのだろう。
まともな声すら造れない自分に比べ、しっかりした声音も、中濃の闇に浮かぶひとみも確かなものだ。先程――半時前、自分が起きた時は、隣であるかなきかの寝息を立てていたのに。

疑問が表情に出てしまったのかもしれない、近づいた端正な顔は明らかな笑いを含んでいた。狸寝入りはもう効かなさそうだ。

「寝起きは、割と良い方なんだよね」

知っているでしょう、と続けられ、心臓のあたりか頭のどこかか、とにかく沸いた羞恥が全身を駆け巡っていった。出口を求めて頬が赤く染まる。行為の前後のことを指摘されているのだと、鈍い己でも分かる。分かってしまった。
白柳の喋り方は器用で、彼がそう意識すれば快活な声は、途端に年不相応なくらいの艶を帯びる。同性の真赭がこれなら、大多数の女子はひとたまりもないだろう。
久馬の恋人たちを容易く奪ってきたというエピソードを思い出し、これならあるいは、と思った。

肘を突いて見下ろす彼は、上機嫌に返事を待っている。不承不承に頷くと、満足そうに頷き返された。

「…めくらえだ、って。なんだ?」

さっきも云っていたよな、と問う。すると、微かにあげた笑い声を引っ込め、口を噤んで白柳は再び視線を外へとやった。つられて、彼の双眸の先を追う。



- 2 -
[*前] | [次#]


[ 赤い糸top | main ]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -