(4)
しゅうりん、と彼の名前を紡いだかどうかの内に、花護は跳んでいた。楼閣の梁に手が掛かったと見えたときには、長身は、目の前にすぐの処に立っていた。風圧が後から追ってきて、俺の髪はばっと音をたてて、背中へと流れた。
硬直している俺目掛けて、筋の浮いた、力強い両腕が伸びてくる。黙って見ていたのは決して落ち着いていたからじゃなく、驚きのあまり声が出なかっただけのことだ。
「う、あっ…」
文字通り、寄りかかっていた欄干から引き剥がされる。周霖は、俺の肩に触れ、腕を掴み、頬から首筋を擦った。夜の空気に冷やされていた身体には、些か刺激的な接触だ。思わず小さな悲鳴を上げると、大きな掌はぱっと退いた。
「…何を、していた」
百官の胆を寒からしめるというドスの利いた声音と口調に、俺は視線を余所へと逃がした。長い付き合いで、怖い、なんて思わずにいられたのは、花精であったときの話だ。
目下の俺は脛に傷があり過ぎて、恐怖以前に彼の前に平然と立てない。もしそう見えるのだとすれば、愛想のない顔立ちと、ぶっきらぼうな物言いの御陰だろう。
「景色を見ていた」
「部屋を出るなと言った筈だ」
「…厠に行きたくて」
「北対は戸を開けた形跡すらなかったということだ。…嘘を吐くのも大概にしろ」
「嘘など」
花精は嘘を吐かない、知っているだろう、と言いかけて―――口を噤んだ。
愚かだ。俯いて、奥歯を噛みしめる。周霖もそれ以上、糾弾してくることはなかった。代わりとばかりに、膝の裏を掬われて硬い胸に抱え込まれる。
「なに、」
「どんなに言ったところで無駄だな。改めてそう思い知らされた気分だぜ」
(「聞く耳を持たないのは、お前の方だ」)
弁を尽くしても、拳を振り上げても敵う筈がない。大人しくされるがままになると、周霖が深い溜息を吐いた。心臓に、鋭い針が突き刺さる。涙は乾ききって、どんな思い出をもってしても、流すことはできないように思えた。
「周霖さま!伎良さま!」
「旦那様、ああ、よかった。いらしたのですね!」
「ご無事で何よりです」
公私における部下として、衛士殿に詰めている彼らは旧知の仲だ。久々に見る顔に俺の口許は綻んだ。
「…心配かけて、済みません」
本当はきちんと降りて礼を言いたいのだが、どうにも周霖は俺を降ろすつもりはないようだった。地面に脚を降ろした途端、脱兎の如く逃げ出すとか思っているんだろうな、多分。
行く場所なんて何処にもないのに。
「伎良さま、良かった…」
「……」
抱えられたまま頭を下げる、という間抜けた行動を繰り返していると、離れたところから、軽い足音と共にやわらかな声が俺の名前を呼んだ。先ほどとは別種のこわばりが全身を充たしていく。見たくない、聞きたくない。でも、小柄な影はすぐの処で立ち止まった。
夜着の上から外套を羽織った美しい青年は、頬を仄かな朱に染め、はあはあと息急きながら微笑んだ。
「心配したんですよ」
「…悪かった。…周霖、降ろしてくれ」
「お前は部屋へ戻ってろ」
俺の頼みを奇麗に無視してくれた花護は、淡々と柳精に命じた。彼はこっくりと頷き、踵を返す。松明の明かりは白い首元に刻まれた、くれないの痕を鮮やかに照らしていた。深呼吸をし、視界を閉ざす。複数の足音が三々五々散っていく。ざわざわと、耳鳴りがする。
慈愛の微笑み。春の江河に映る、碧翠の双眸。俺がもし、彼の立場であったら、同じように接することが出来るだろうか。あれは勝者だからこその態度なのだろうか。
(「…この思考が既に花精じゃないんだよな…」)
ぎりょう。そう呼ばれた気がして、俺は目蓋を押し開けた。野性と品格を絶妙な配合で混ぜたような美形が、こちらを見下ろしていた。
黒とも茶ともつかないその瞳の色は、涅(くり)と称する。
水底の泥土の色らしいぜ、と自嘲するので、そこから咲く蓮の一族は、俺の大切な友だと言って遣ったことがあった。バカにすんな訳わかんねえし、と呟いた周霖は耳を赫々と赤くしていた。残された、俺という個体の懐かしい記憶。
彼を見返したまま、口脣を薄くひらいた。
周霖は、一向に歩き出す様子がない。俺を軽々と抱きかかえ、彫像みたいに立ちつくしている。まるで、俺が喋り始めるのを待つかのように。
「…なんだ」
痺れを切らしたのか、ついにそう聞かれた。なんでもない、と素っ気なく応じる自分の声を、遠くに聞いた。
――――なあ、俺のこと、いつ捨てるんだ?どうせ捨てるのなら、未練なんて欠片も残さないでばっさりやってくれよ。
周霖はやさしい。少なくとも、俺の知る彼はやさしい男だ。だから、…もしかしたら。
俺が自分から別れを言い出すのを待っているのかもしれない。
まるで見せつけるように、新しいつがいと交わるのも、つまりは、そういうことなのかもしれなかった。
>>>END
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