(3)
尿意なんてきれいさっぱり消えていて、今更厠へ行く用もなく、さりとて自室に戻る気分にもなれず、庭の端にある鐘楼へ足を向ける。
眠さで不機嫌倍増だった下男の顔を思い出す。舟でも漕いでいる頃合いかもしれない。探す気があればとうに捕まっていた筈だ。まだ大丈夫、もう少し、と自分に言い聞かせながら、夜露に湿った苔を踏む。
昔、ここに住んでいた旗人がたてたという鐘楼は既に鐘が取り外され、鐘楼としての役目を終えている。朽ちて倒れでもしたら危ないから潰すか、と周霖が言ったとき、俺は厭だと返事をした。
高いところから街並みを眺めるのが好きだ。
周霖のお役目が内勤に代わり、景陵に屋敷を構えるにあたって、二人で家を探した。ここに決めたのは、青春宮から近いこともあるけれど、この鐘楼があったのが大きい。
『バカと猫と、伎良(ぎりょう)は高いところが好きだな』
呆れたように言った彼は、かまわねえよ、と笑った。お前が気に入ったのなら、俺はいい、と。それが二年前。月日が経つのは本当に、早い。
「あの頃は良かったなあ」
俺の体重に、木造の階段は億劫そうな音を立てた。一瞬、ひやりとする。
以前の癖がなかなか抜けなくて、気付けば危ない行動を取ってしまうこともままある。花精と人間の目方は圧倒的に前者の方が軽いし、こんな階段など、二、三度の跳躍ですぐ登り切ってしまう。現在の俺が同じことをしようとすると、あっという間に膝をすりむく、落ちる、で、転ぶ。
昔話に言う、羽衣を失った天女は、こんな心境だったのかもしれない。まあ、俺、天女なんて柄じゃないけど。
やっとのことで楼閣の天守へ到着した。
ここまで来ると、流石に風が強く、腰まで伸びた黒い髪が勢いよく煽られて、顔をびしびしと打った。普通に痛い。案の定、夜着も風を孕んで、俺はよたつきながら、欄干へ手を添えた。これで一安心。楽しみにしていた眺望へ目を遣る。
春苑の庭都、景陵(けいりょう)は闇色のビロウドに、宝石箱を引っ繰り返したような美しさだった。街の灯りの奥に、円形の屋根を被った宮殿が建っている。青春宮である。蹲る巨大な生き物のような、その天辺は、雲に覆われて見えない。分厚い雲の帳で隠された宮のずっと上には、庭師が住む至聖所がある。
青春宮の脇には、平べったい、横長の建物がある。これもまたでかい。碩舎を修業した花護が、さらに鍛錬をし、学業を積む「建礼舎(けんれいしゃ)」だ。周霖はここを出た後、娶せの儀で、俺を娶った。
忘れるはずもない。紺色の衣袍に身を包んだ、あいつと逢った日のこと。
『…縁に従い、互いの命を依りとし末永く番うことを、春苑の主の名において誓う』
「あぁ、もうなんなんだ…」
決壊のときを今か今かと待っていた目尻が、ぶわ、と熱をもった。と同時に、甦ったのはあの声。肉の交合に身を浸す二人と、取り縋る白い手。
手の甲で必死に擦り上げても涙は止まっちゃくれない。はためく袖を掴んで両目に押し当て、俯く。俺の興奮を冷ますように夜の風が身体に纏わりついた。その流れを読むことも、操ることも、出来なくなった。我ながら感心するくらい、見事なまでの役立たずぶりである。
人の身になってから、ずっと渦巻いている疑問がある。
俺は、此処に留まっていて、本当に、良いのだろうか。周霖の為を思うのなら、すぐにでも出て行くべきなんじゃないのか?もっと手っ取り早い方法は、眼下に広がっている。そう囁くのは己自身の声だ。
欄干に手を掛け、落ちればいいのだ―――下へ。
声を殺し、ひとしきり涙を流しているうちに段々と冷静さが戻ってきた。袖は水分を吸って、しっかりと重い。気恥ずかしくなる。
バカみたいだ。悲劇の主人公ぶったって、どうしようもないのに。
人間に転化してしまったのは取り返しが付かない事実だ。周霖との関係は―――彼と話をして、改善出来ていれば勿論、こんなところでぐずったりはしていない。だからといってひたすらめそめそしていても、得るものは皆無だろう。
心なしか腫れぼったい手触りになった目蓋を指で押し、再び広がる庭都の眺めに視線を戻したときだ。
「こちらはどうだ!」
「いや、いない。北対へ行ったらしいが、閂は下りたままだ」
「釣殿の方も確認しろ、場合によっては池も浚え!」
「…あー…」
白や黄にきらひかる街の灯よりも、もっと近いところに明々と燃える松明の光が。俺は、欄干に肘を置いて頭を抱えた。
まずい、捜索されている。しかも相当大がかりに。
取りあえず、ここに居ると大声を上げるべきだろうか、それともさっさと階段を降りて姿を見せるべきか。どちらにしても家人の白眼視は避けられそうもない。より穏やかに済む方法はないかと考えを巡らせる、その僅かの間だった。
「―――伎良ッ!」
「っ、」
どん、と向かいの棟の屋根に、重量のあるものが勢いよく乗った。
振り返ると、深い紺の衣を乱雑に羽織った男が、瓦を軍靴で踏みしめている。彫りが深く、猛々しい顔はまるで羅刹のようだった。金茶の髪が風で巻き上がる。爛々と光る涅色(くりいろ)の目に、ぞっとなる。
怒ってる。しかも、物凄く。
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