(8)



客間はちょっとした修羅場だった。
正しく言えば、俺が来たことにより決定的な修羅場になった。処刑される咎人の気分を味わいながら、歩き慣れた廊下を進み、清冽さんに促されて開け放された扉の中へ入る。途端に、何かが音を立てて飛んできた。

「うおっ!」
「この…恥知らず!恥知らず!恥知らずっ!!」
「迦眩ァ!貴様、何を考えている!この親不孝者!なんだその格好は、気でも違ったか!」

すんでのところで、その物体とこんにちはすることを避けた。標的を失った靴は見事な円を描いて庭へすっ飛んでいった。ほどなく池からぽちゃん、と間抜けた音がした。

「おばさん、…おじさん…」
「呼ぶんじゃないよ!お前など、うちの人間じゃないんだからね!」
「……」
「さあ、奥へ。お入りなさい」

花精に背を押され、まず目に入ったのは、上座に陣取る燕寿の姿だった。
ふんぞり返って脚なんか組んじゃって、まるでここの主は俺様です、と言わんばかりの態度だ。左隣で這い蹲って、唾を飛ばしながら俺を罵っているのは義父。痩せぎすで目玉がでかいことを除けば、なかなかの好男子だった。若い頃推定、かつ限定でだけれど。義母はその前に立ちはだかり、もう片方の靴を脱いで投げつけようと頑張っていた。
いつもに比べて高そうな服を身に纏い、やわらかな絹で作った牡丹の花を髪に挿していた。真ん中には小粒の真珠が幾玉も縫い付けられている。まるで彼女が結婚するみたいだ、と思った。

この怒りぶりを見ると、燕寿の野郎に経緯説明でも受けたんだろう。どうせばれるのなら、夜中、この男が訳分からんこと言い始めたあたりで気付いて欲しかったものだ。
妹が逃げる時間稼ぎにはなった、そう思って自分を慰めるしかねえな。

「お前が!お前が台無しにしたんだ!」

義母が叫んだ。花の刺繍が細かにしてある、黒い布張りの靴を手にしたままだ。憤怒で血管の浮いた手は蒼白になり、靴はべっこりひしゃげている。

「恥知らず!親の顔を潰すだけでなく、私たちにまで迷惑を掛けるつもりかい!」

白粉がはたかれた顔の、眦や口の端がぎりぎりと吊り上がっていく。額には皺が生まれ、眼球に血走った線は見て取れるほど太く、多かった。
でくの坊のように突っ立っている俺へずかずかと歩み寄ると、義母は持っていた靴で俺の頬を打った。ばし、と派手な音がする。

「…さあ、跪いてお詫びをするんだ!早く!!」

背後から、醜い、と小さな呟きが聞こえた。頬の次は腰だった。痛むそこを容赦のない力で叩かれて、堪らず俺は腰を折った。

「うっ、」
「さあ、さあ!早くおしよ!頭を床に擦りつけて、赦して頂くまで詫びるんだ」
「…だれに」
「何だって?!」
「誰にだ、」と床に向かって吐き捨てる。

本当は、直接顔を見て言ってやりたいが、真剣に身体が動かないんだ。ここまで来るのも一苦労だったしな。

「あんたにかよ。それとも、後ろで米つきバッタみたいにしてるあいつにか。偉そうに座ってる、正朱旗のおぼっちゃんにか?バッカバカしい。ふざけんな」

膝を付け、腰を折り、片腕で身体を支えるようにしながら、俺は首を上へと捻った。そこには、悪鬼よろしく歪んだ義母の顔があった。いつものお上品な喋り方はどこへやら、だ。


この家に迎え入れられたときのことが走馬燈のように甦る。
街を取り囲む壁の向こうに、突如蟲が現れた。父と母のところにすぐ報せが来て、ふたりとも躊躇いなく出て行った。「行ってきます」なんていう、何の変哲もない挨拶だけ残して。

そうして、俺たち兄妹は孤児になったのだ。

花精である父は無論のこと、母は兄弟がほとんどおらず、既に故人だった祖父の縁戚の云々、という繋がりで、家族の一員になった。兄弟は六人、全員男。必死に打ち解けようと頑張ったけど、うまくいかない。
その内、妹が悪戯されかけた、と泣きついてきて、四番目の阿呆を殴った。殴り返されて、半殺しの目にあった。義母が説教をして、妹への厭がらせだけは止まった。
「あれは大事な道具だから、」そう、諭していたと、口さがない使用人がお喋りしているのを聞いて、何が何でもここを出てやると、決めたのだ。
それまでは、飯に泥が入っていても、干した筈の衣服がどぶへ落ちていても、我慢出来た。

けれど、妹のことはたったひとつだけの、守るべきことだったんだ。

平和惚けだと?そんなの、幾らだってすればいい。戦なんて起きる必要はない。俺はそれどころじゃねえんだよ。

「あいつを道具呼ばわりした連中にごめんなさいだなんて、死んでも言うか!」
「お前、お前はァ!」
「あぐ」

がん、と頭をぐしゃぐしゃに揺さぶる震動に襲われた。それと、激痛と。
足袋を履いた義母の足が、俺の首根っこを踏んでいる。衣の襲(かさね)か、白と桃と、緑の縁取りがちらちらと揺れた。

「この――――できそこない!」
「……っ、」




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