(4)
俺が把握し損ねていたことは、自分自身の身体だけに留まらなかったわけだ。
起き抜けのぼんやりした思考がかろうじて拾った会話。そう、会話だ。燕寿と誰かが、小難しい話をしていた。
…相手は、誰だ?
花嫁の被り物、紅蓋頭に埋もれた頭を必死に捩る。
部屋の扉よりの場所に、格子戸を後ろにして、上背のある痩身の男が立っていた。
燕寿よりも背が高く、見た目の年齢は上に見える。三十代くらいだろうか。でも実際の年は分からない。
何故ならその男は――――おそらく花精だからだ。
真っ白の、腰の手前まで伸びた髪。ひとみが黒々と映える淡い黄緑の双眸。血管が透けて見えそうな膚、そして恵まれた長い手足。美貌から受ける印象は刃のように鋭い。燕寿もそうだが、この男は人形じみた雰囲気が相俟って、尚のこと酷薄そうに見える。
長袍も、上着である馬掛も白で、縫い取りは銀と、朱色。糸の組み合わせは、倫家の所属であることを示している。首にかけられた絹の比礼には花の縫い取りが見えた。紋様の柄は、銀糸で細かく入れられているので、ここからじゃ分からない。
「興が冷めるようなことを言うな、―――清冽(せいれつ)」
覆い被さっていた燕寿は、如何にも面倒そうな様子で上体を起こした。
黒髪を掻き上げる仕草は、ぞっとするほど奇麗で、官能的だった。声もだ。餌を食い損なった肉食獣の響きを認めて、俺の恐怖は倍増しになる。様式美でもあるまいに舌なめずりまでしている。なんてやつだ。
「わざと申し上げたのですよ。遊ぶのなら、屋敷に戻ってからになさいませ」
その花精、清冽と呼ばれたそいつは、至って淡々と反論した。
俺の常識を覆すくらいの、容赦のない諌言だった。やさしさなんて欠片も感じられない。
花精なるもの、性は温厚篤実にして、連れ合いたる花護には従順と相場が決まっている。現に、幼い記憶になる父と母とは、親父が完膚無きまでに尻に敷かれていた。…あれは単に性格によるものかもしれないけれど。
これほどはっきり言ってのけるということは、燕寿の、つがいだろうか?倫家の御曹司は花精嫌いで有名だったのに、あれはデマだったのだろうか。
「主人と妻女がお待ちかねです。今にも、この部屋へ押し掛けようという勢いだったのを、私が止めてまいったのです。手回しを無駄にしないで頂きたい」
「しゅじん…、さいじょ…」
それって、俺の義父母のことなんじゃねえの。鸚鵡返しに繰り返す俺へ、長身の花精は重々しく頷いた。
「然様。貴方の養い親です。…どんな理由があろうが、初夜を迎えた娘の閨に押し入ろうなどと、下賤な」
「時に高潔な人物よりも下劣な人間の方が扱いやすい。あまり高望みするな」
「おいおいおいおい」
さっきから聞いていれば、下賤だの下劣だの。それなりに最低な親戚だけれど、一応は喰わせて貰っている身だ。あまり好き勝手言われても良い気分はしねえんだが。
「あれらが、縁戚になるのかと思うと怖気がします。貴方の無茶は小さな時分から見ておりますが、今回はまた格別に趣味が悪い」
清冽は長い袖の縁で口許を覆い、「ケッ」って風に顔を歪めた。俺はぽかんとした。花精が舌打ちしてる。なんだこりゃ。…じゃねえ、このびっくり花精以前に、今、聞き捨てならないことを聞いたぞ。
「縁戚、だって…?」
「奴らはどうしている」と燕寿。俺の質問は見事に無視。
「客間の上座を空けて、今や遅しと貴方をお待ちですよ、燕寿さま。襟元を締めるのをお忘れめさるな。それでは全く説得力がない」
「分かってるさ」
赤い残像がふっと飛んだ。靴の踵が床を叩く音すらさせず、まさに舞い降りる、という表現がふさわしい動作で、燕寿は降り立った。この部屋を訪れた夜更け、踵を鳴らしてやってきたのはわざとだったのか。
「おい、俺の質問に答えろ」
腰に佩いた刀を確かめるように撫でた後、今以て蒲団と仲良くしている俺を一瞥する。こんちくしょう、と睨み返したら、奴の喉がくっと音をたてた。
「お前もせめて、襟や帯なりとも整えてくるんだな。それでは目に毒だ。ああ、着替えの必要はない。そのままで」
「はぁ?!」
「清冽、もし衣服を取りに戻ろうとしたら止めろ。…私が、赦す。殴っても良い」
「承知いたしました」
「先に行く。…では、また後でな、迦眩」
[*前] | [次#]
◇PN一覧
◇main