(5)





「…どうした、遠い目をして」
「貴方が甲蟲で、屋敷の正門を塞がれたときのことを思い出しておりました」
「ああ…」
「腐臭がして、最悪でした。昨日のことのようにまざまざと思い出せます。衣の裾が汚れて、実に酷い目に遭い申した」
「それが所為だ、と、衣を新調していただろう。今更昔のことをしつこく言うな」

つくりのよい、きれいな手を裏返せば、胼胝(たこ)が山ほどあると知っている。剣を握り過ぎて出来たものだ。彼は、ただ自分自身だけで、己の行く末を切り開こうとしている。
指が向かう先がやはり、淡く黄味の掛かった髪だと見て取り、清冽はたまらず唸った。

「媛(ひめ)ならばまだ分かります。子を成し、家におけば、父君の出した条件も果たせましょう。しかしその者は雄です。花精にも、胎にもなれませぬぞ」
「……」

傑出した力をもつ燕寿が、家から自由になる唯一の方法。それは、彼以上に強い花護を倫家に残すことだ。
優れた子が生まれ次第、彼は、倫の名を捨てることを赦される。娶せの儀への参加を強いることもしない。父が呑んだ条件は、つまりそういうことだった。

「…貴方は消極的に取引を先延ばしにするかと思っていましたが」
「兄に後継を委ねたまま、朱夏宮へも行かず、適当に子を作る。そういうことか」
「ええ」

倫に縛られはするが、執政と後継、どちらも棚上げにしたまま悠々自適に暮らす。
そこそこの家の娘と子を成し、親へ渡す。彼ならば可能な選択だったし、最も現実的な遣りようだと見ていたのに。

「確かに、そのつもりではあったがな…」

海老で鯛を釣ることを考えたんだよ、と燕寿は嗤った。逆だろうと思う。目当ての魚を釣り損ねて、雑魚を掬い上げてしまった。清冽にはそうとしか考えられない。

「あの甲蟲騒ぎを思い出しました。嫁にすべき相手を見つけてきた、と言われたときの私の心境、いかばかりとお思いか」
「…よく言う。兄上と茶を飲みながらそれは重畳、の一言で終わりにした癖に」
「にわかに信じがたかったもので、また嘘かと」
「お前に嘘を吐く暇があったら、蟲でも狩りに行った方がましだ」

昏々と眠る迦眩は、髪と、目蓋の下にあるであろう瞳の色を除けば、どこをどうしても市井の少年でしかない。成長途中の体躯に、あかぎれの目立つ手、足袋を脱がされた足も、がさついて荒い。顔立ちは凡庸の一言に尽きた。碩舎にかろうじて入れた、うだつの上がらない学生、と言われればそのままだ。
花精の力も弱く、頭の中も並か、それ以下。燕寿に平気で刃向かう気の強さだけは認めるが、それも胆力ゆえではなく、単なる世間知らずからと判じている。低い身分の家であったとはいえ、お世辞にも、脅してまで手に入れる価値があるとは思いがたい。

だが、報せの烏に導かれて、清冽が緋旗の屋敷へ赴いたとき、閨の中で抱かれていたのは間違いなくこの男だった。
紅の花嫁装束を乱し、花精の血あきらかな白い脚を、燕寿の肩へ引っかけて、艶やかな嬌声をあげながら。

「趣味で囲うのであれば、…倫旺さまに口添えも致しますが。簫家からの縁談は避けられぬでしょう。その者はどこか郊外に家でも買ってやって、住まわせるのが宜しいかと」
「簫の女はいらん」

青年は静かに言った。ひやりと凍てつく声に、清冽の柳眉が寄る。

「しかし、」
「妾であれば迎え入れると言え。それこそ、屋敷の離れでも田舎の家でも宛がってやる。私が望んだのはこれ、だ。―――他の者は、誰もいらない」
「…父上にはどのように説明するつもりですか」
「私が家にいる間は、文句はあるまい」

彼らしくなく、根本的な解決には程遠いことを言う。

「では、迦眩殿の処遇は」
「…迦眩が決めたようにするさ」
「…承知」

肩越しに振り返った花護は、うつくしくも残忍な笑みを浮かべている。向けられた殺気に頷かざるを得なかった。目的を定めた彼にとって、障害になるのであれば、あの夫婦も馴染みの花精も一緒なのだと思い知らされる。

主と、その弟のおねだりが、清冽は何より苦手だ。
旺寿は捨て置けない風情で、燕寿は圧倒的な力でもって要求を叶えようとする。おねだり、だなんていう可愛らしいものであるかどうかは、些か疑問の余地が残るが。
両の手の指に余る数になった溜息が、自然と口脣から零れ出た。既に燕寿は背を向けている。がらくたを持ち帰って来た子どもを、一体どうあやせばよいものか。花精の心境は、まさにそんなところであった。


>>>END


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