網と梔子
酷い茶番に付き合わされたものだ、と、清冽は嘆息した。心の中でこっそり、などと、負荷の溜まることはしない。わざとらしいくらいの溜息を吐いてやる。
「…そう嘆くな」
褥に座り込んだ花護は、それを聞きつけてちらりとこちらへ視線を遣った、が、すぐに元の姿勢に戻ってしまう。無関心を貼り付けた後ろ姿は慣れた眺めだった。
これが嘆かずにいられるか、というものだ。
蘇芳の簾を降ろした庇車(ひさしぐるま)は、陽光を受けながら、大路を緩やかに進んでいた。
時刻は昼前、官吏たちの登庁も一段落した頃合いである。食事を賄う店からは、炊けた米や、焼いた肉の香りが漂ってきていた。人の通りも、行商人に買い物客が圧倒的に多い。ちらほらと学生らしき姿もある。
老いた御者が手綱を取るその車は、通常では高位の旗人が、―――特に妻女が使うものだったが、朱色の房飾りや鳳凰の縫い取りで、婚儀の車だと明らかにしていた。
しかし、従う下人も、道具や結納の品を入れたつづらの類もなく、車ひとつがしずしずと馬に牽かれている。その異様さに、道行く者たちは珍しげに車箱を見上げていたけれど、震動に合わせて、簾や房が揺れているさまが見えるのみだ。無論、内部の会話など聞こえようもない。
御者の、よく日に焼けた赤い顔は、皺ひとつをも動かさなかった。ひやかしはすべて無視し、彼は緘黙を保ったまま、竜鱗(りゅうりん)の馬の腹に軽く鞭をくれていた。その馬もまた、衆目を集めているのだと知らぬかのように。
竜鱗馬は夏渟の南で産される獣で、普通の馬より身体が大きく、銀色の硬い鱗を首根のあたりから脇腹、尾まで生やした馬である。蹄は金剛石に例えられほどで、蹴られたら虎ですら一溜まりもないと言う。足は速く力も強く、蟲を狩る花護たちには珍重されている騎獣だ。
倫家は人を土地に遣って、数頭を直接買い付けていた。その中の二頭が憐れにも車引きに引っ張り出されたのである。
舗装された道にこつこつと蹄の鳴る音が響く、それを聞きながら、清冽は再び背中を向けてしまった青年を見つめた。
人の成長は早いものだ。あんなに小さかった身体も、もうすっかり成人のそれだ。特に背の高い自分はともかく、兄の身長はとうに抜いている。無駄なく鍛えられた筋に広い肩は花精と比べるべくもない力強さだった。
車が動き出して以来、婚儀の衣装を纏ったままの燕寿はしきりに眼下の男の世話を焼いていた。
薄い上掛けを掛けてやり、髪を梳き、ときおり頬に触れては温もりを確かめている。盥に張った水で手を冷やし、布巾で軽く拭いた後、額に乗せはじめたときは己の顎が外れるかと思った。常ならない甲斐甲斐しい様子は、花精の頭に鈍痛をもたらした。
(「…我が主に何と言ったものやら」)
夜半、緋旗の家へただちに参れ、と報せが来た時、倫旺の赦しを得、清冽はすぐさま向かった。
婚儀のための庇車と牽く馬を用意せよ、来るのは清冽ひとりで良いと書かれた文に少なからず疑問を感じたものだ。
燕寿自身が見つけてきた相手は、家格も低くお世辞にも倫と釣り合うような身分ではない。正式な妻として娶るのではなく、幾日か通って後、密かに迎え入れる予定ではなかったのか。しかも猛々しい竜鱗の馬とは、初夜どころではなく、まるで討ち入りではないか。
厭な予感をおぼえつつ、取る物も取りあえず屋敷を後にしてきた。その予感は見事、大当たりをしたわけだ。一族にも憚られるような者を、しかも男を連れて帰ってきたなどと、倫旺にどう説明したらよいものか。燕寿自身に言わせよう、そうしよう、と固く心に決める。
つがいのいない燕寿のことは、自分と思って気に掛けて遣ってくれ。主にはそう命じられている。
花精嫌いで有名な若き花護も、清冽には、なりに懐いていた。彼が生まれたときから倫家に仕えていたし、清冽本人は認めていないが、「花精らしくない」自分は嫌悪の対象とならないようだ―――そこで眠り続ける迦眩と同じくして。
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