(9)



歯で何処かしら切ったのか、鉄さびた味の涎が口から垂れた。頬が生温い。なみだ。無性に悔しかった。ここに来て、何年だっけ。六年?七年?

「お前なんてどうでもいいんだ、あの娘はどうしたんだい!お言い!詫びすら出来ないと言うのなら、せめてそれだけでも言うんだよ!」

お袋、とも、親父、とも言えなかった。呼ばせては、貰えなかった。俺は人間じゃないのか。でも、花精じゃないって老師(せんせい)はいってた。
自分はずっと、ひとだとおもっていたのに。今でもだ。ただ親父が花精なだけだ。他のところは何もかわらない。

普通に笑っていたいし、温かい飯が食いたい。幸せになりたい。

『―――貴方は、花精として嫁ぐのですか。それとも、妻として、燕寿さまに嫁ぐおつもりですか』

清冽さん、さっきのほんとうの答えは、『どちらでもない』だ。
俺はどっちでもない。どっちにも、なれない。


がん、がん、と頭を打つ音は、幾たびも続いたように思えた。もしかしたら気の所為で、すぐに止んでいたのかもしれない。初めの一撃が相当効いて、脳震盪でも起こしていたのか、膝を折って前のめりになった体勢で、動けなかったから、分からなかった。
気配は、唐突に現れた。それが誰なのかを、俺は「思い出していた」。
体躯は鞭のしなやかさで、その貌は花精すらかすむほどに美しい。障子を通した朝の日に、切り絵のごとく影を浮かび上がらせて立っていた。重さを感じさせず、まるで舞を踊するかのように。

「う、ぐっ…」
「では、死んでみるか」

剣鉈(つるぎなた)の鞘が、だらしなく緩んだ顎を持ち上げ、晒した。垂れた涎が螺鈿のそれを汚していく。燕寿は気にした風もなく、何かつまらないものにするみたいに、刀の端に俺を引っかけている。束に掛かる手は片手だった。秀麗な容貌は、至って涼しい顔をしていた。

「死んでみるか、と問うている」
「あ、…っ、うあっ」

うまく開かない目で、影を見上げる。
逆光で、黒い人の形をした塊が沸き上がっているようにしか見えなかった。双眸があるべき場所に、暗闇色のひかりが填め込んであった。ぎらぎらと―――そう、おかしなことに、その闇は輝いていた―――恐ろしいひかりを放つそこから視線を逸らせず、俺は、鞘で擦られるたびに呻き声を上げるのみだった。

「―――清冽」
「紅旗の藩(はん)家に問い合わせたところ、緋旗の媛など匿ってはいない、との返答でした。屋敷の内へ入って確認されても厭わぬと」
「馬鹿な!あれが、藩に逃げたのは明々白々ですぞ!」

義父が悲鳴混じりに言い返しているが、花精は意に介する様子もなく、続ける。

「…しかし、嫁を一人、迎え入れたと、当主の言にございます。女は既に藩の人間、もし身柄に不審あらば紅旗で調べるゆえ、倫家、緋旗ご一同のお手を煩わすことはなきよういたす、そうお伝え頂きたい、と申しておりました」

ああ、あいつは、無事についたんだ。空戒は、ちゃんと送り届けてくれた。よかった。
全身から完全に力が脱ける。俺は、首の下に渡された鞘へもたれ掛かる格好で頽れた。燕寿は、小さく鼻を鳴らした。

「それはそれは、」と、美声は愉快そうに言う。「慶事の家に踏み入るなど、礼を失したことはできぬな」
「然様で」と清冽が和す。
「しかし…」
「お母上、紅旗を相手に係争など、正気の沙汰ではありませぬよ。あれは裁事を生業にする血筋です。滅多なことでは諍いは起こさない方がよい。それよりも、もっと面白いことを思いつきました」
「は、はあ」




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