(2)
埒があかないと判断したのか、たららさんは僕の相手をするのを止めたようだった。僕らの住むアパートに、洒落たワードローブなど有ろう筈もなく、やはり、窓際につり下がっているハンガーから、白い調理服を外して着込んだ。
「…じゃあ行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
寒い三和土へ二人して出る。廊下に灯る玄関灯で視界はぼんやりと明るい。たららさんは相変わらず、僕の方を見ないようにしながら、スニーカーに足を突っ込んだ。黙って行くのだろうか、と流石に不安になったところに、「契(けい)」と名を呼ばれた。
「…ちゃんと鍵かけろよ」
「はい。…たららさん、」
「なんだよ」
「…早く帰って来てくださいね」
「あー」
昼に夜に、たららさんは生活を守る為に働く。昼は派遣で司書、夜は中華料理屋で皿洗い。僕がバイトをするのは長期休暇のときだけしか許してくれない。これについては絶対に譲らない。たくさん勉強して、いい学校に行けだなどと言うのだ。
一度、約束を破ってバイトをしたけれど、キレたたららさんは大層酷いことになった。恐ろしくて二度と出来ない。
ここに来たときより、たららさんは随分と痩せた気がする。
働き過ぎ。僕の所為だ。滅多なことじゃ泣かないし、辛いことなんて何もない。たららさんが僕を拾ってくれたとき、それらすべてが終わった。
けれど、彼の苦難は、もしかしたら、
ドアノブへ伸びた手首を掴む。と同時に、その細さにぞっとなる。
「たららさん忘れてる」
振り返った白い横顔が、オレンジ色に染まっている。瞳が光を弾いて見えるのは、まさか、先程の応酬で泣いたりしたのだろうか?
申し訳ないと思う反面で、肚の裡がぞくぞく総毛立つ。すごく昂揚する。
「いってきますの、キスは」
「う…」
「ホラ、早く。遅刻しちゃいますよ」
素足が汚れるのも構わずに、打ちっぱなしのコンクリートへ降りた。固まるたららさんの肩に手をかけて顔を近づける。逃げる様子は無さそうだ。この儀式の言い出しっぺが自分だから、今更やめだと言えない、意地っ張りな所もいとおしい。
「…名前、呼んでください」
「…っ、けい」
薄く開いた口唇を、全部食いちぎるみたいにキスをした。体でもって、彼の体を扉に押し付けて、脇腹を手のひらでゆっくりと撫で回しながら。
「…ぐ、っ、ふぅ…、は、」
あなたがすきです、あなたがすきです、あなたがすきです。
例え、あなたが本当に呼んでいる相手が、僕じゃないとしても。
「けい、…慶っ…」
あの細い腕が僕の首に回る。脚が艶かしく、絡んでくる。
くちゃくちゃと恥ずかしい音をたてて、口唇が腫れぼったくなるくらいに口付けを交わした。正気に返ったたららさんが、下半身を擦り付け始めた僕をひっぱたいて逃げるまで、狂乱の時間は続いた。
「ごめん、…ごめんな、契…」
出迎えてやろうと、毛布にくるまり、玄関に座り込んでいたらいつしか眠ってしまったみたいだ。たららさん、帰って来てる。ということは、もう12時過ぎたってことか。はらはらと花片のように落ちてくる声が心地よい。体育座りで、足の間に頭を埋めた格好のままでいたら毛布越しに抱き締められた。…今日はいい日だ。
「…っう、も、持ち上がらねえ」
ぐす、と鼻を啜りながら、僕を抱き上げようと奮闘しているらしい。無理に決まってんじゃん。こっちの方が断然重いし。
「仕方ねぇな…図体だけでかくなって中身はまんまかよ。大人をこきつかうんじゃねーよ」
ぶつぶつ言う声が遠ざかっていく。そして、また足音が戻ってくる。隣に寄る体温が、僕を隅々まで温める。
(「…やっぱりバカだ…」)
こういうときこそ、非情さ(あくまで彼のそれはスタイルだけれども)を見せて叩き起こすべきだ。冬の玄関で添い寝とか、朝には風邪引き二人の出来上がりじゃないか。
「…けい、ほんとう、ごめん」
こつん、と、肩に乗る彼の頭。美味しそうな油の匂いがする。謝るべきは余程、僕の方で、彼が聞いたらマジ泣きしそうな秘密を山程抱えているのに。例えば名前。舌足らずに間違える癖はとっくに治っている。多々良さん。僕が間違え続けるのは、父が彼をそう呼んでいたからだ。
半身に掛かる重みに加減がなくなってから、頃合いをみて彼を部屋に運んでいった。久しぶりに一緒に寝たら、翌朝首を絞められた。
[*前] | [次#]
[ 本編 | main ]