(5)



笑いの痙攣が治まった頃合いをみて、深呼吸を繰り返す。帰宅して、観春の顔を見るなり爆笑、というのだけは避けなければ。殺されてしまう。万が一にも冬織に逢えたら、余計に気をつけなくちゃ駄目だ。こんな阿呆らしい理由で冬織を傷付けるわけにはいかない。

「…あの、…友人は、なんて言っていました?」
「体調が悪くて帰りました、って。ご心配有難うございます、えーっと、なんだ、ああ、あとから連絡入れますとか何とか。顔だけじゃなくてさ、すっげ品行方正だった」

もはや、乾いた笑いしか出なかった。おそらく、接客仕様のあいつ。実は俺もお目に掛かったことがない、伝説のそれ。

「品行方正っていうか、…慇懃無礼?」
「はは…」
「あ、ごめんね。ヤマシナ君の友達捕まえてそりゃないよね。忘れてちょうよ」
「…いえ、…はい」

ちょっとその観春、見てみたかったな、と暢気に思えたのは、きっと目の前にいる、このひとの御陰だ。いつもだったら、あの男の整った―――けれど、どこまでも冷徹な容貌と、俺を嘲る声を勝手に被らせて、落ち込んだりしたかもしれない。不思議と、今は平気だ。

観春が兎我野さんの話題を振ってこなかったということは、多分、通りすがりに絡まれた、くらいにしか考えていないってことだろう。酔っぱらっていたのが、逆に功を奏したかもしれない。俺が同席している場であれば「お前の所為で面倒な思いをした」くらいの文句は言われそうだ。
どだい、俺に関わる出来事に、あいつが関心を払うわけは、ないか。

「大丈夫です。電話も、貰いました。人が多いとこ、あまり得意じゃないんで、良かったんです」
「ふうん、そっか。残念だなあ。あのあとね、会社の席戻って、若い子、誘いそびれたっていったら、お局様にすっげ攻撃されてさあ…」

彼氏持ちだと思っていた女性も、実は別れたばかりで、「どうして連れてこなかったんだ」と手酷く叱られたそうだ。俺はアウトオブ眼中って感じ、と冗談めかして喋っている彼と二人して腹を抱えて笑った。あんな風に大声を上げて笑ったのは、久しぶりだったかもしれない。気付いたのは、マンションに帰った後、ベッドに潜り込む寸前だった。



「―――おれ、コンビニって好きだな。陸の灯台みたいで」

そう、兎我野さんは呟いた。
彼が見つめる先には、さきほどまで俺が働いていた場所がある。改めてみると、普遍性の象徴のように思えた。どこにでもあって、誰かが必ずいて、いつも変わらない。
勿論、ほんとうは、ご大層なものじゃない。ただのコンビニだ。でも、彼の言う「陸の灯台」という言葉に、ちょっと共感できた。
寒い夜の日、駅からおりしなに店を見るとほっとする。例えば、そういうことだろうか。

「遅く帰るときとかさ、見ると、ああ、働いている人がいるー、って思うんだよね。俺と同じで頑張ってるんだなあって。それに、明るいしね。こういうの、大分女々しい思考だとは分かっちゃいるけど。…おれが独りもんだからかなあ」
「…俺も好きですよ。色々な人に逢えて、面白い」

後部座席に放り出されていたビニール袋の中身は、そんな夜を過ごす準備なのだろう。彼だけじゃない。爪のきれいな女性は、週ごとにマニキュアのデザインを代える。青い鞄の男の子は塾帰りだ。冬になると鍋を手におでんを買いに来る母親。最近はコンビニも便利よね、だなんて戯けて。

「すっげ勢いでレジ打ってるヤマシナ君ね、コンビニの妖精さんみたいだったよ。半端ないシンクロ率だった」
「店とですか」
「そう、店と。なんかもう四百パー越えって感じ」

コンビニエンスストアの妖精、って一体なんだろう。クッションの効いた背もたれに寄りかかって考える。車内に染みついている煙草の匂い。厭な感じは、しなかった。

「…あなたが落としたのは、牛丼まん、肉まん、ピザ…」
「それとも、トンポーローって…、うっは、君その手の冗談も言えるひとだったの」
「始めに振ったのは兎我野さんでしょうが」
「だねえ。仰るとおり」

皓い、皓い、体内時計を狂わせる強烈な光。継ぐべき言葉を失って、俺は黙って光の差す方を見遣った。彼もまた何も言わなかった。穏やかな沈黙がその代わりとばかりに、しばらくの間、続いた。


車で送ってくれるという申し出を断り、兎我野さんと俺とは、駐車場で別れた。マンションは歩いてすぐの距離だったし、逆に彼の家は駅向こうに少し車を走らせたところだと分かったので、辞退をしたのだ。そうでなくても、きっと君は断ったよ、と兎我野さんは大人ぶった態度で言った。成人男性に大人ぶる、という表現は不適当だけれど、そうとしか喩えようがない。ふふん、という、心の声すら聞こえてきそうだ。

もうひとつ、彼を得意にさせてしまった理由がある。

「給料日前だから、奢りは今度ね」

別れ際、さよならの挨拶代わりの台詞に、俺は目を丸くした。口も間抜けに開けてしまったかもしれない。
花見の日、それは、名刺と共に渡された約束だった。社交辞令の、その場きりの。

「いえ、…あの、俺は」
「俺は今月末、焼き肉が食いたいのでえ、問答無用で焼き肉でーす」

兎我野さんはしてやったりの表情になって、「名前覚えてくれててありがと」と、締めくくった。自分が記憶するのは当たり前で、人が覚えてくれるのは僥倖だとでも言うのだろうか。
図鑑のページを捲ると、しおりで癖のついた部分は勝手に開いた。ひらり、と白い辺を覗かせる名刺を俺はそのたびごとに見た。明朝体で印字された風変わりな名前も。

ばん、と音を立ててチンクエチェントのドアが閉まる。エンジンに丸っこい身体が揺れ、ヘッドライトがアスファルトを照射する。窓の向こうから振られる手に、つい、つられた。俺がぎこちなく手を振ると、車内の影はより大きく振れる。遣り取りの時間は大した長さじゃなかっただろう。指示器を点滅させながら、銀色の車は道路へと流れて、やがて見えなくなった。

「……ラッキーストライク…」

腕を下ろしたとき、ふっと掠めた、甘くほろ苦い匂い。コートの袖口に鼻を近づける。服か、髪か。身体そのものからかもしれない。薄い皮膜を纏うように、あの匂いがした。
きっと歩いているうちに消えるだろう。部屋に着いても残っているのなら、玄関に常備してある消臭剤でも吹きかければいい。観春も、…冬織だって、厭がりそうだから。


惜しいな、と思った。
そして、そんなことを考えた自分自身に首を傾げながら、ひとり、帰路をたどった。


>>>END
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