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「ほら、また困ってるでしょ」と、煙をふわっとふかしながら彼。「ヤマダくん」
「山科です」
「知ってる。さっきのはちょっとしたジョーク。ねえ、君の字って、マウンテンの山に、罪科のカでヤマシナ?それとも、階段のカイでヤマシナ?」

聞き慣れない単語に、頭の中がわっと混乱した。少なくとも、階段の「階」じゃないことだけは確かだ。

「…つみとが?」
「科目のカ、理科のカ」
「あ、そっちです」

初めて逢った時も、そういう自己紹介の仕方をしていたな。彼の癖なんだろうか。
気圧されつつも、負けちゃならんと必死に言語機能を叱咤した。

「あの。わかってるなら、なんでヤマダなんていうんですか」
「君ってノせないと、警戒しちゃってなかなか喋ってくんないから。一応これでもね、営業さんだから人の名前は一回聞いたら忘れないんよ。これ、おれの特技ね」
「すごいですね」
「すごいでしょう。もっと褒めてよ」
「……」

もう一つの特技は人の気概を挫くことだと認定する。嘆息しながら、蒸気でふやけた紙袋に手を伸ばした。遠慮をするのが馬鹿馬鹿しくなる。
胸が苦しくなるような甘さと渋みを含んだ煙が、ふっと鼻に香る。夜気に流れると、音や匂いは、微かなものであっても人の五感を震わせるように思う。伝導率が上がっている、そんな感じがする。例えば、誰かが可笑しげに笑う気配であっても。


肉の味が口中に広がるなり、現金な胃袋は、急速に空腹を訴え始めた。自分でも呆気に取られるような素早さで中華まんをたいらげ、メッセンジャー・バッグに入れっぱなしになっていた水を取り出して、呷る。チープで、しかも相当脂っこいけれど確かに肉だ。こういうコテコテのものって、久々に食べると美味しいな。

「あ。あの、…御馳走様でした」
「はいはーい、お粗末さん」

視線を感じるなり、欠食児童みたいな己の行動に羞恥が沸く。実に今更の反省だが、もう少しゆっくり食べれば良かった。
兎我野さんは、おそらく二本目の煙草を口に咥えると、ジッポーで先に火を付けていた。泰然と煙をふかしている様は、非喫煙者である俺をしても、酷く美味そうに見えた。吊り上がったままの口角に、俺を馬鹿にした様子はちらともない。子ども扱いは、されているかもしれないけれども。
口脣に食べかすがついていないか、指で確かめながら、口を開いた。

「話って、なんですか」
「謝ろうと思ってね。余計なことしちゃったんじゃないかって」
「…何のことですか…?」

まさか、今日突然登場したことじゃあないだろう。だって、この邂逅はまったくの偶然だ。
花見の日、声を掛けたてきたことだろうか。すごすご帰るところを引き留めてくれたことだろうか。それとも、名刺をくれたことか。あれはもちろん、プライベートなものじゃない。彼の会社の所属を示すものだ。行きずりの高専学生に渡して、デメリットはあってもメリットは皆無だろう。
返してくれ、と言われたら、実は、可能だった。携帯用の図鑑はバッグに入っており、名刺はその中に挟まっていた。いつしか、添え付けのしおりのように、しっくりと馴染んでしまったのだ。

思い当たる節を片っ端から脳裏に列挙しつつ、続きを待った。
―――彼の言葉は、どれでもなかった。


「おれさぁ、君が帰った後、君の友達に声掛けたの。何で帰したんだ、って」


「…え?」
「ほんとごめんね。こじれたりしなかった?酒回ってたみたいでさ、勢いあまっちゃったっぽくて」

半分だけ開いた窓から、夜目にもきらきらと光る双眸が俺を見ていた。吐息が寒々と白い。パワーウィンドウが薄く曇る。気にしないから、早く中に入って下さい、と言おうと思った。同時に、俺がそう言ったところで彼がうんと応じないことも理解できた。

「ヤマシナ君、場所取りすんのバイトだって言ったじゃん。でもぜんぜん信じられなくて。よかないんだけど、そういうの。他人だしね、首突っ込むなって話でしょう。けど、君、顔色良くなかったし、様子ヘンだったし。そういうやつがいるのに、楽しく飯喰ったり酒飲んだりとかって、意味分かんねえの、おれ」
「…俺の友達って」

答えはひとつしかない筈なのに、やっとの思いでつばを飲み下しながら、訊いた。

「あのすっげえイケメン。ニンジンの間違ったみたいな髪した、超キラッキラしたやつ」

やはり、観春だ。観春しかいない。

「…く、っくくく…」
「…ん?どした」

出来るわけもないのに、兎我野さんは窓の縁を掌でぐいぐい押した。まるでそこから侵入しようという勢いだ。そんなことで窓ガラスが下りたら、自動車会社もさぞかし困るだろう。腹腔に沸いた笑いの種を宥めながら、首を横に振った。

(「…人参って…!」)

人参の間違ったみたいな、って。あれは一応鉛丹色ってやつで、特注の色で、観春が特に気に入っているやつなのに。それは、俺だって内心思ったことはあったけれど、第三者からしてもそう見えるって、結構な笑撃だ。

「へ、…っ、ふ、はは、平気、平気です…。何もこじれたり、…つか、今初めて知ったくらいで…」
「あ!そうなの?!」
「はい」と俺。

これは本当。観春はおろか、冬織にだって聞かされていない。
尤も、彼の意識が眠っている時であれば、泥酔営業マンと俺の恋人とは逢っていない目算になる。時間的にそれが正解だろう。兎我野さんに相対したのは、十中八九、観春の方だ。




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