(8)



住宅街の入り口に繋がる角を曲がると、人気は格段に少なくなった。
人の壁が無くなった途端、身体目掛けて容赦なく寒風が吹き付けてくる。ダウンジャケットの前を寄せるという、あまり意味のない行動を思わず取った。ついでに頭も冷えた。俺は一体、何をしようとしていたのか。目の際が妙にじんじんする。まさか、涙なんて出てないよな。
観春の隣に並んだ。目尻を擦って、杞憂だったことを確かめる。大丈夫、俺はいつも通りだし、さっきは少し混乱してしまっただけだ。あと1時間もしたら逢魔が刻、ってやつだしな。魔が差したんだ、それだけのことだ。小さく咳払いをして、声の調子を整える。同居人は俺が喋り出すまで、何も言わずに横を歩いていた。

「…ええと、秀吉ってところなんだけど。…知ってるか」
「ハァ?」
「…だから、秀吉…」
「…あぁ?」

何故店の名前を言うだけでこんなにも罪悪感を覚えなきゃならない。尻すぼまりになりながらも、再度繰り返すと、想像出来たことだが――鼻で嗤われた。

「意味分かんねえ。何ソレ。からかってんの?ネタ?」
「わざわざ冗談にするものじゃねえだろ…。本当にそういう名前なんだよ。旧市庁舎の商店街にある…」

伊関にしたものと同じ説明を繰り返し、かつ、今度はちゃんと若い店員も居ることをアピールした。いや、実際は、年齢による技量やセンスを気にしてはいないんだ。そんなご大層な髪型でもないから、秀吉だろうが、友人の行きつけの店だろうが、大多数の理容師(美容師?)は、確実に俺の要求を満たしてくれる筈だ。
同居人はきれいな顔に冷笑を浮かべている。嘘を吐くべきだったか、と一瞬思った。全力で馬鹿にされる方向だな、これは。

「若いやつ、ねえ…」
「別に誰に切られたって構やしないんだけど」と妙に言い訳がましい口調に自己嫌悪だ。
「まあ、いいんじゃないの?お安くて。ショーゴに合ってるじゃん」
「…っ、う?!」

急な風の流れが表皮に起こった。あっ、と思うまもなく、毛の生えた方向に逆らって、背から首へと撫でられる感触。
反射で出掛かった声を、押し殺す。
俺の体躯は、伊関の時とは絶対的に違う、はっきりとした恐怖を感じとっていた。恐怖と――その奥底で眠っている期待とを。

(「…ちがう」)

期待なんて言葉では誤魔化せない。…快感だ。
あのきれいな、整った指が自分に触れている。恋人とまったく同じ形と、温度を持ったそれが。冬織に植え付けられた快楽の受容体が、ゆっくりと目蓋を開き始める。まずい、…駄目だ。

「やめ、」

ろ、と最後までは言い切れなかった。振り払おうとした手を、もう片方の力強い手で押さえ込まれてしまったのだ。手首が万力で締められたみたいに軋む。痛みが完全に勝り、御陰で正気付いた。生理的な理由で滲む涙を堪えつつ、相手を睨め付ける。

「観春…!」

マンションの前に到着したにも関わらず、俺と観春は足を止め、互いににらみ合う格好になった。幾ら人通りがまばらだとは言え、往来であることに変わりはない。しかも自分たちの家の前だ、近所の人間に喧嘩と勘違いされたらどうするんだ。
観春はすぐには手を離さなかった。俺の抵抗をものともせず、奴の指は悪戯を続ける。襟足を掻き上げて膚を露わにし、質感を確かめるように短い束にして、引いた。自然、身体が反り返る格好になる。急所である喉を晒す姿勢に本能的な恐怖が湧いた。

「痛っ…」

非難を込めて視線を強くする。対する彼のそれは笑みの形に、三日月に歪んでいたけれど、凍えるようだった。俺が怯んだのを見て、嘲りの色はさらに濃くなった。

「ま、好きにすれば」と観春は言う。「何したってさぁ、結局変わんねえよ、お前は」
「う、あっ」

ぐい、ととどめとばかりに引っ張られ、今度は耐えきれずうめき声を上げた。寸前までの執着が嘘みたいに、身体が解き放たれる。呆気にとられて彼の顔を見ると、嘲弄は、蔑みに変わっていた。下賤の者を見るような目つき、というのがあったら、多分これじゃなかろうか。つくりが良い奴が冷淡な顔つきになると、余計に凄味が増すものだ。ごくり、と、唾を呑み下した音が耳に煩く響く。

「……」

くだらないことに、…安心した。こいつは、やはり、「彼」じゃない。

同居人はいつもそうしているように、俺の頭の天辺から爪先までをひとしきり眺めて、小さく肩を竦めた。どこをどう解釈したとしても、手の施しようのない馬鹿を目の前にしてしまったという態だ。
慌てて距離を取る俺を置いて、すたすたと歩いて行く。自動扉が開き、オートロックに部屋番号を打ち込んでエレベーターホールへ。長身の影がそうして消えていくのを、馬鹿みたいに突っ立って見送った。赤にも金にもかがやいた光景の中、離れたくないと一瞬でも思えたのが、まぼろしのようだった。



- 8 -
[*前] | [次#]

[1HL.top | main]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -