(6)



「誰と話してた」
「…バイトの同僚だよ」
「名前は。男、女。どっち」

言うと、彼は「知らない」と憮然とした様子で吐き捨てた。いや、俺が話していたところで聞いていないか覚えていない、だろ。普通に。無茶言うな。確かに諦めてしまった俺が、元より喋っていないこともごくたまに、あるけれどな。

観春は、紺地のショートコートに深蒸栗の、ラインの奇麗なパンツを穿いていた。長い脚が交互に動く度、足元を飾るごついブーツががつがつとアスファルトを叩いた。こちらの歩幅を斟酌する筈はなく、ついて歩くのでいっぱいいっぱいだ。
金具があちこちについた靴は、ファッションに明るくない俺からしても高そうな品に思える。最近買ったものだろう、あまり見たことがない。これに合う磨きのクリームがあったろうか、と思案した。命じられているわけじゃないが、観春の靴を磨くことも、己に課している仕事のひとつだ。

「…ふうん」

一通り質問に答えると、納得した様子はちらともない癖に、彼はそんな風に話を打ち切った。俺がどこでどうしていようと、誰と付き合っていたって、割り当てられた仕事さえこなしていれば構わない、といった雰囲気だ。

「観春は。今、帰りなのか」
「これから出るわけねーじゃん。馬鹿じゃない」
「…そりゃそうだな…」

大学の帰りだと言う同居人の、エナメルのメッセンジャーバッグは俺のそれよりも遙かに薄くて、軽そうだった。遊びに行ってきたと言われても納得したかもしれない。だが、近頃、派手な遊びも収まっているのは俺も知っていることだった。

冬織の裏工作が効いているのか、最近の観春はきちんとマンションに帰ってくる。一体どんな遠ざけ方をしたのかは不明だが、取り巻きや―――いや、何を置いても観春の彼女にとっては迷惑なことだろう。
俺としては複雑な心境だった。
本当は嬉しい。物凄く。逢ったこともない、移り香でしか存在の知らない女性の気持ちなど、推し量る余裕すらない程。申し訳ないと思ったところでそんなもの、偽善だ。冬織と一緒に過ごす機会は、バイトの同僚に言えなかった唯一の、俺の「欲しいもの」だから。
しかし、それは観春の人生であり、関係そのものだ。俺が冬織を引き留めようとすれば、必然的に同じからだを共有している男に影響が出る。

観春は自由でいるべきなのだ。分かっている。理解は、している。なのに、気持ちは、手は、彼を縛ろうと追い掛ける。
彼への不満は僅かたりとも漏れてはいけない。身のうちに押し留めているつもりになって、もしかしたら、ふいの拍子に表面に出してしまっているかも、…そう考えると、時折観春が起こす癇癪にも得心がいくのだ。勘の鋭いこいつのことだ、言葉や態度の端に見え隠れする俺の嫉妬や、謂われのない糾弾を感じているのやもしれない。
彼に対して、俺が言うべきことはあくまで友人としてのそれでなくてはならない。生活にしろ、交友関係にしろ、目に余ることがあっても、感情的に咎め立てることなんて赦されない。

「…それで、」

交差点を渡り、のっぽの高層マンションがビルの向こうに見えてきた辺りで、こちらを一顧だにしないまま観春が言った。

「それで、なんでシフト動かしたわけ。わざわざ公衆電話なんて前時代的なものまで使ってさ」
「床屋に行こうと思って」
「…トコヤ?」

不安定な発音がおかしくて、少しだけ笑ってしまった。視線を上げると伊関宜しく、カメムシでもうっかり噛んでしまったんじゃないか、というレベルの顰めっ面を作る同居人が居た。額から鼻筋への滑らかな稜線に、くっきりと皺が浮かんでいる。床屋ってそんなに悪いものか?

「高校生だって行かねえよ、そんなとこ」
「学校の奴にも言われた。俺は悪くないと思うんだけどな」と、笑ったのがばれないように、口許を隠しながら喋った。「早いし、安いし。お前みたいに奇麗な髪しているわけでもない」
「……」

男に奇麗、という評価は些かまずかったろうか。聞き流したのか観春の様子は変わらなかった。眉間に刻まれた溝が浅くなっただけ。もっと、顔をきちんと見たい。声だけでは観春の感情をうまく掴めないのだ。鈍い俺には致命的だ。
隣に並ぼうとして、向こうから現れた人にどん、とぶつかってしまった。よろめいて、後足で踏みとどまる。この時間に横並びで歩くのは難しいかもしれない。

「…すみません」

人混みに押されながら、広く張った背中を慌てて追い掛けた。厭味たらしいほどに長い脚の持ち主だ、油断したらあっという間にはぐれてしまう。そこそこ高い背と、鉛丹色の髪は実によく目立った。正面から顔を見たらしき女性が、隣の友人に耳打ちをしている。長く巻いた睫毛の先は通り過ぎた観春へ向いていた。それだけで胸がつきんと痛む。俺の中には、唾棄すべきほどに弱い自分が居る。
離れたかと思っていたが、意外に、難無く半歩後へ追いついた。安堵の吐息が聞こえたのか、こちらを振り返る気配がした。




- 6 -
[*前] | [次#]

[1HL.top | main]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -