(15)



―――冬織は。

冬織には、観春の技能のようなものの、恩恵があるのだろうか。
かつて読んだ、解離性同一障害について書かれた本には、人格によって持つ能力には差異があるとあった。学者に近い知識量を持つ者、銃器の取り扱いに長けた者。ひたすらに泣き喚くだけの存在や、それら全てを睥睨する俯瞰的な人格。おのおのが違った役目や能力を持ち、ひとつの、本当の自分を守っている。

素人が囓っただけの知識で冬織を判断することは出来ない。まして、彼が(彼らが)多重人格者だと決まったわけじゃない。仕組みを暴いたところで何になるだろう。冬織が一時間の檻から出て行けないのなら、…意味など。
俺の恋人は冬織だ。そして、その関係を続ける限り、同じ身体を共有する観春に対して俺は、後ろめたさと不定形の要求を抱え続けるのだ。明白なことは、このふたつきり。

だから、今、目の前で動くきれいな指の所以は、きっと器たる、身体が覚えているからなのだろう。下手な理屈は抜きでそう、思うことにした。
優美な形のスプーンで粉を掬い、マグカップへと落とす。少量注いだ湯で練るように混ぜる。ミルクパンから牛乳を注ぐ。どの動作も迷いが無くて、とてもきれいだ。箸を持つことすら億劫げに見える観春も、職場ではこんな風に働いているのだろうか。想像出来ないな、と苦笑しかけてはっとなった。

(「…冬織を見ていて、あいつを思い出すなんて」)

冬織に指摘されて否定したばかりなのに、今度はほんとうに観春のことを考えてしまっている。

傍若無人の理由は、俺自身に端を発しているかもしれない―――それはひとつの畏れ(おそれ)だった。
昨日今日の話じゃない。相手を蔑ろにしているのは、あいつじゃなくて、むしろ自分の方ではと、観春の友達の発言を聞いてからずっとずっと、危惧していたんだ。見ない振りをしていた悩みの種を、夕方、あいつとの遣り取りで突かれた格好になった。友人としての観春、恋人としての冬織。そして、中途半端な自分だ。
一人で居るときは決意を固めきった、もう大丈夫だと思えるのに、冬織が腕を広げて迎え入れてくれると急にぐらつくのは何故だろう。弱くなるのはこんなにも容易い。一番安心できるひとの裡で、俺はぐだぐだと泣き言ばかりだ。くそったれ。

外着を畳んでソファへ乗せ、淀みなく続けられる作業をぼんやりと観察する。
思ったよりも倖せな気分になれない自分が、厭らしく思える。同居人への罪悪感は、冬織の前においては一時横にしたほうがいい。考えて解決になるならまだしも、心配させて終わるのなら、せめて彼が居ない時に悩むべきだ。

「青梧」
「…ん、」

白く上る湯気の向こうから招かれて、俺は不抜けた態で声の方へ寄っていった。冬織が立っているだけで見慣れた台所がこの上なくあたたかな場所のように思えてくる。
長い指が、頬にそっと触れた。与えられる体温が優しくて、辛くて、堪らずに瞳を閉じる。やわらかい闇の中で、彼の感触はずっと重くなった。冬織が身体の輪郭をなぞると、自分の形が、はっきりしていく気がする。
平らかな親指の先が口脣を割るのに従い、軽く咥えた。彼は言う、

「…青梧は難儀だな。楽にしてやりたくて甘やかすと途端に悩む。面倒くせえ状況のときほど、平然としてる。人の気も知らないで」
「俺は…、いつだって普通にしてる。変わらない、なにも」

前歯を撫でられると、下腹がゆるく熱をもった。衝動的にどうこうしたい、というのとは違う。冬織の言葉の通りに、ぬるま湯の気持ちよさだ。

万事うまくいくとか、そういうこととは別に、観春に対しても友人として誠実でありたい。そう思うのがエゴだと分かっていても、きちんと。
けれど、俺が呈する苦言の中には必ず、冬織への恋慕が含まれてしまうだろう。口を噤んでいても漏れている不満だってあるやもしれない。
恋人をつなぎ止めたくて、あいつの言動を看過するのは違う気がする。こればかりは、冬織に相談してどうこうできる話じゃなかった。あくまで俺の、立ち位置とかスタンスの問題だ。

全部、そういうのを棚上げにして彼の差し出してくれる甘さに浸れたら、どんなにか楽だろう。

「お前が時々修行僧か何かかと思うよ俺は」と冬織。「…それかマゾか」
「…あほか」
「いや、ほんとマジで」

掌だけじゃなく、声にまでくるまれている気分で、俺もまた笑った。瞳を開けると、ずっと見ていたのだろう、薄く微笑む彼がいた。やさしく弧を描く双眸も、きれいな髪も、ダウンライトを浴びて蜂蜜色に輝いている。着込んでいるのがどてらだってことと、相手が俺だということを除けば、映画のワンシーンみたいだ。

「…なあ、俺のことだけ考えてろよ。勝手な言い種かもしれないけど、他のことは全部、後回しにしようぜ」

どんなに長くても、ただの一時間だ、と重ねられた言葉に、頷く以外の術を持たなかった。他でもない俺が投げかけた言葉の真意、冬織に相対しているときは彼を見ているのだという想いへの―――、それが答えだから。



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