(13)



冬織は緘黙したまま、ゆっくりと瞬きを続けた。まるで、言葉の意味を咀嚼するみたいに。特段小さな声で喋ったつもりはなかったが、分かって貰えなかったのだろうか。俄に心配になって、カウンターへ近寄っていく。視界の端に、ふっと影が奔った。なんだ、と驚いた瞬間に、がさついた布地の感触が、頬と首後ろの膚を刺した。

「―――ぃ、っ!…んん、っ」

下唇を噛まれ、思わず開いた口腔へ、ぬるく柔らかな舌が這入り込んでくる。俺のそれを裏側から突き上げ、吸う。解放された、と思いきや、上顎の裏も、歯の根も同じようにされて、勢いよく喰われた。条件反射で差し出した舌の肉を甘く噛まれる。これまた反射で出掛かった悲鳴は、出口を失って意味不明な唸り声に変わった。

「っ、うんっ…、はっ」
「…ふ、」

お前なんだ、いきなり人を襲っておいて笑ってやがるのか?俺はこんなに必死なのに。
年の功とか、経験値の差とかってやつなのだろうか、息継ぎをしようとしても、頭を肘の内側で挟み込まれていてうまくいかない。気持ちよすぎて頭の中が加速度的に白んでいく。膝が笑い、縋るものを求めて、適当な場所を掴んだ。覚えのある感触は、使い古しの半纏だった。はっと、現実に返った。

別にこのまま事になだれ込んでも構わない、…いや、若干構うけれど、とにかく、俺の抵抗なんて大したものじゃない。彼が俺に対してそうである以上に、俺は冬織にすこぶる甘いからだ。自覚はある。そもそも、冬織は誰かさんと違って、こっちが真剣に厭がることはしない。
しかし毎度毎度流されるわけにはいかないのである。特に今夜は。
―――だって、ココアを淹れてくれるって言ったじゃないか。

出迎えがあって、あたたかい飲み物を作って貰える。
そういう、何でもないことは、俺たちの間では稀少だ。くっついて相手の存在を確かめているうちに、情けなくも時間が過ぎていく。

恋は盲目とはよく言ったものである。
相手が可愛らしい女の子じゃなくて、自分よりもがたいのいい、えらい美青年だとしても、ココアを作る恋人の画を想像するだけで、俺の心は小市民的な喜びを感じてしまう。可能であれば、過程の様子から見物したいくらいだ。
冬織が、台所で動いている俺をにこにこしながら見ている気持ちもこれに近いのだろうか。
大したことじゃない、ごく普通の出来事。でも、俺と冬織の長いようで短い付き合いからすえば、きっと数えるほどしかない――特別な、日常だ。

抱き合うのも悪くないけれど、思考は欠片も残さず飛び散って、訳が分からなくなって終了、というおおよそのパターンになる。彼は俺がしっちゃかめっちゃかになっているのが良いのだ、と世迷い言を言う。最低限の理性や矜恃すら保つことができずに、ぐずぐずと崩れていく堕落した姿を、好いのだと。
そう聞かされる度に俺は、恋人の口を塞いでやりたいと心底思う。

密かに思い出し怒りをしていたら、頬を包んでいた片方の手が、指が、ぐっと俺の首にめり込んだ。救命講習の気道の確保――、と、状況は真逆だ。

「…余所見すんな」

この展開で彼に関わること以外、何を考えるというのだろう。
冬織の表情は、あまりに近い距離の所為で、はっきりわからない。発言はともかくとして、欲情露わな吐息(残念ながらお互い様だ、)で何となく、笑っているらしいことは知れた。同時に、この先どうとなっても、躊躇いがないことも伝わってきた。一重につられている俺がいけない。全身で同意しているようなもんだ。
少し仕掛けられたくらいで、こんなところで盛っている自分が無性に許せなくなる。ココアとセックスを天秤に掛けているのも嘆息ものだ。腹がカウンターの天板の縁に押し付けられて痛いのも厭だ。まだあるぞ、すごく、苦しい。鼻で呼吸を確保するにも限界があるんだ。まったく、俺を殺す気か。
自分と冬織に対する不満の憂さ晴らしにせめてもと、はっきりしない相手の顔あたりへと必死でガンを飛ばす。生理的なはたらきで滲む涙が視界をぼやかしている。恋人が小さく息を呑む音が聞こえる。少しは効き目があったかと、袖を握る手に力を込めた。

何がスイッチなのかは不明だが、ひとしきりキスを繰り返した冬織は始めた時と同様の突然さで、俺を放した。無様甚だしいが、背骨を曲げてぜいぜいと息をすると、再び手が伸びてきて、乱雑に髪を引っかき回していった。

「…あんまり可愛いこと言ってると、着替える手間を省いてやりたくなるから、…やめろ」
「…っ、はっ、…はあ?」

広い背中は、着替えてくるまではがんとして振り向かないぞ、という決意に満ちている――ように、思えた。捕まえたり突き放したり、忙しい男だ。こっちが言ったこと、ちゃんと分かっているんだろうな。戻ってきたらしっかり問い糾さねば。
心なしか膨れてしまった口脣を擦りながら、自室へと向かう。甘く芳しい香りが後を追い掛けるように漂っていた。



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