(10)



手っ取り早い解決法があるじゃないかと、自分と良く似た声の誰かが耳元で囁く。
今くすぶっている感情は放棄して、さっさと別れて。冬織のことを忘れてしまえばいいんだ。

冬織曰く、「中村冬織」と接触をしている相手は、目下俺だけ。だから、俺さえ口を噤めば、彼は、事実上この世界から消える。居ない人間になる。

行動が赦されている時間の配分からすると、存在のたしかさは観春の方が上なんだろう。
あいつは俺が居ようが居まいが、好き勝手に遊んで暮らして、そのうち親の会社でも引き継いで、きれいな女の子と結婚する。そういったレールに諦めつつも乗っかるつもりでいるし、観春の親もそう望んでいる。
本人だって、遊び飽きたらそういうことになるかな、なんて、乾いた微笑みを浮かべていた。以前、観春と俺がまだ、仲が良かった頃の取り留めもない身の上話を思い出す。
少なくとも、兼業農家生まれの男子学生と同性愛、なんて最も忌むべき選択だろう。

俺が離れていけば、新しい秘密の共有者が出現しない限り、冬織は孤立してしまう。
だとしても、罪悪感や責任なんてものを引き摺る義務はない筈だ。世の恋人たちが別れを繰り返すように、冬織と俺も別れる。ただ、それだけ。仮に彼が、真実愛する相手を見つけて離れていくとしたら、なおのこと倖いだろう。後は彼らが悩むことだ。俺には関係ない。

―――何も難しいことを考えなくて良い日常が帰ってくる。

観春の顔色を窺って一喜一憂することも、時計の針をはらはらしながら眺めたり、十二時を過ぎて鳴らない電話に肩を落としたりせずに済む。勉強に専念して、時々家族や、自分の将来の心配をすればいいんだ。

そうして、水源を持たない湖がいつか枯れ地になるように、誰も知らないところで、「彼」の存在はひっそりと失われていく。
ひとの命は――存在は、物理的な死だけで訪れるものじゃない。その人間を認知する相手が絶えてしまったときにもひとは死ぬのだ。

冬織が、消える。
俺から、俺の目の前から。

『―――青梧』
「…、」

高専に上がる前までの、なんでもない毎日が懐かしく思えた。
同時に甦ったのは、やさしく、切なく自分を呼ぶ声。初めて受け入れたときの痛みと、赦しを求めるように揺れた薄い色味の目。そこに在った熱に応じたのは、他でもない、自分自身だ。


(「…馬鹿か、俺は・・!」)


何てくだらないことを考えたんだろう。
外気以上に冷たく、乾きを伴った感覚が身体の芯を浸している。ジャケットへ突っ込んだままの手、爪の先は皮膚の柔らかいところに食い込んでいた。もっと痛くなればいい、血が出たとしても、くだらない発想もろとも流れてくれるならその方が。

あのやさしい声を、甘い体温を、こんな俺を大切にしてくれて、誰かを大切にしたいという気持ちを教えてくれた男を切り捨てるだなんて、愚の骨頂だ。
尊まれるべき、愛する、という言葉は、ともすると陳腐で、簡単には口に出来ない。言った途端に軽くなってしまうようで、今がそうだろうか、この気持ちがそうなのか、と思っても分かり易く相手に示せた試しがない。けれど、もし、心をそのまま取り出してみせることが出来たら、捧げるひとはただ、ひとりだ。それは馬鹿げた解決法と同じくらいに、確かなことだ。


ホテルのロビーと見紛うばかりの1階ホールへ足を踏み入れると、天井に吊り下がったシャンデリアがきらきらと輝き、よく研いだ刃を思わせる硝子の滴が芸術的な螺旋を描いていた。弾かれた光を受けて大理石の柱も天井も、境界を薄くしている。象牙色に充たされた柔らかな空間は、いつ見ても現実感がない。およそ、俺には分不相応だからだ。

深夜ということもあって、人気は無い。冷たい空気を纏わり付かせて歩く影がひとつ、あるだけ。
墓石のように整然とならぶ郵便受けを横目に、エレベータへ向かう。ボタンを押してかごを呼んだところ、すぐに電子音が鳴った。響く音まで感心するくらいに品が良い。
ドアが開き、矢車菊のクラシックな壁紙が覗く。到着階を指示すると、動き始めたことすら悟らせないほどに静かに、かごはシャフトを上がる。

正方形の内部の一辺に頭をもたせかけて、階数の表示板が1つずつ数を増やしていくのを見守った。そうしていれば突然の動悸みたいな悪い考えを、少しは冷静に考え直せる気がしたのだ。




- 10 -
[*前] | [次#]

[1HL.top | main]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -