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いつも通り虚仮にされた御陰で調子を取り戻せた、と思っていたのだが、とんだ自己欺瞞だったようだ。観春に遅れて帰宅し、彼の飯の支度を調えたり、洗濯機を回したりし、アルバイトに出掛けた。
ここまではいい。

バイト先のコンビニで早退を促されるほどの、失敗に次ぐ失敗が、俺を待っていた。
あまりの仕事の酷さに、自分で自分の頭を殴ってやりたい気分である。過去、ここまでヘマをしたことはない。バイトに入りたての時ですらもう少しまともだった。

おでんに差し水をしようとして、目測を誤って床に水をぶちまける。ドリンクを詰めていて、前に収められているものと違う種類のペットボトルを陳列する。廃棄の食品を回収し損ねて、レジではエラーブザーの大合唱。諦念に満ちた目つきで長蛇の列を作る客、というのは非常に胃に堪える眺めだった。正直言って、吐きそう。

「山科さん、今日どうしたんですかあ」
「もう本当、ごめん…」
「いえ、私いつもフォローして貰ってるんでえ、なんか新鮮だなあって」

採用順から言えば後輩にあたる女の子が、眉を八の字に下げて心配してくれた。あまりの申し訳なさに旋毛が見えるくらいに頭を下げると、「ほんと気にしないでくださあい」とのこと。気にする暇があったら、この床さっさと拭けって感じだよな。
雑巾じゃ事足りない水たまり具合なので、バックヤードからモップを持ってくることにする。もう一度詫びを入れて、パソコンのモニターがぼんやり光る、薄暗い部屋へ向かった。



夕暮れのまやかしは、期せずして、俺にひとつの命題を突きつけていた。
退勤の時間になって、深夜番の人間と入れ替わった後、マンションへの道のりをとぼとぼ歩く。心境は手つかずの宿題を一瞬で片付ける呪文を探す、八月末日の小学生そのものだった。

俺と冬織は、取り決めを交わしている。
冬織がそうと頼むまで、彼のことで観春や周囲へ働きかけはしない。勿論、存在について口にするのもタブー。
冬織と逢う機会を増やすためにバイトの時間をやり繰りしたり、いつかの花見の時みたいに帰宅を促すのはすれすれでオーケーだ。だが、観春に理由を訝しまれるような真似はしてはならない。

恋人のこととなると、どうも俺は迂闊さに輪が掛かるらしく、当の本人からしてみれば危なっかしくて不安なのだそうだ。
「俺が一緒にいられなくてただでさえひやひやしてんのに、見てないとこでこれ以上不安要因を増やすんじゃねえよ」とは、彼の言。
思い当たる節があまりにもありすぎて、反論出来なかった。
焦って馬鹿をして、彼と逢えなくなってしまったら本末転倒だ。現状には不満だらけだが、俺のそれは感情的なもので、恋人が置かれている不安定さとは話が違う。今はきっと準備をするときなんだ。来るべきときに、冬織に望まれたらすべきことを行えばいい。

一度、心配が絶頂に達したらしい彼に窘められてからずっと、そう思っていた、
―――今日までは。


本日二回目の帰途を辿り、同じ角度でそびえ立つマンションを見上げるに至って、足がついに止まった。高さの所為か、最上階へ進むに連れて、滑らかな壁が湾曲して見える。
鏡のようなその壁面に、遠くの鉄塔から放たれる赤い光がぼんやりと照り返っていた。明滅するそれは夕刻、観春の背後に広がっていた色とよく似ていた。
辺りは静けさに包まれ、時折、電車が線路を渡る音と、大通りからのエンジン音が聞こえてくるのみだ。

この先、観春と暮らし、冬織と恋人である関係を続けていくとしたら。
俺はいつか、彼らのうちどちらかを選ばなければならない時が来るのではないだろうか。
…いや、選ぶなどという傲慢な時間すら与えられず、中村冬織という男を失ってしまうんじゃないか。

考えられるケースの最たるものは、冬織が案じていること―――彼の存在がもうひとりの男に知られたそのとき。そして、観春の無関心が俺への完全なる飽きや倦みに変わり、あの部屋を出て行かなければならなくなったときだ。あの我が儘の代名詞みたいな男が、嫌悪する対象を周囲に置く筈はない。容赦なく追い出されるに決まっている。
前者はシミュレーションしようにも頭がおかしくなりそうだし、後者も負けず劣らず最悪の展開だ。しかもリアリティの点で言えば上である。
同居している現在だって観春の機嫌とタイミングが鍵なんて有様、離れて暮そうものなら、一体、1時間の工面をどうつけりゃいいんだ。


昔ほどは奇異な扱いをされなくなったであろう多重人格というもの、おそらく彼らはそれに該当すると俺は踏んでいる。
不謹慎な表現になるが、いっとき、その手の本がブームになったことがあった。市立図書館にあった単行本は、多くの人の手に渡ったことを示して、背表紙もページもくたびれきっていた。装丁はおしなべて陰鬱な色合いをしており、さらには、示し合わせたように手描きのイラストだった。
海外ノンフィクションで圧倒的に占められていた棚の前に向かったのは、流行の時期じゃない、冬織と出逢ってからだ。彼の現状が少しでも知りたくて、隠れて、調べた。
複数の人格がひとつの容れ物に入って存続し続けるのは、相当に無理がある筈だ。経験なんてないから、あくまで想像の域を出ないけれど、図書館で借りた多重人格者の体験記は壮絶なものばかりだった。

冬織は、自分に掛かる負荷を無きもののように振る舞っている。でも、そんなの嘘だ。段ボールに荷物を詰め込むのとは訳が違う。
そして観春。あいつの知らないもうひとりの自分の存在は、何らかの影響を及ぼしてはいないだろうか。こうしている今も、俺が気付いていない、…気付いてやれない、まずいことが起きているのかもしれない。もし、目に見える形で「まずいこと」が表に現れたとき、俺は、どちらを優先させればいい?






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