(3)
「注意を逸らす、とかは、分からないけれど…。居ていいなら、先生来るまでは…」
「そうしてくれ。マジで」
「なぁに?帰一の気をそらしておきたいの?」
「おっま、そういう事はオブラートに包め!つか本人目の前にして言うんじゃねえよ!」
「十和田にそういう配慮があったとはねえ…。まあ、いいから月下から離れてくんない?」
もう少しすれば勝手に寝ると思うけど、と白柳は言うのだが、それはそれで今、糸居が居る席の人に悪いんじゃなかろうか。そわそわと落ち着かない十和田が椅子に尻を落とすと、友人はペンケースの中をまさぐった。糸居を呼ぶ。
「なに壱成」
「帰一、知恵の輪あるよ。やんない?」
「ほー」
「…知恵の輪?」
懐かしい響きに興味をそそられてかちゃかちゃと音のする方を覗き込んだ。不思議な形に湾曲した金属が出てくる。何とも喩えようのない形状だった。小さな輪っかと、大小の突起物がふたつ。変形した栓抜きみたいにも見える。輪の部分に別の連環が嵌り、もうひとつ同じものが双子みたいにくっついている。
半眼がざっとそれを検分して、首を振った。
「それ、壊さないと無理」
「本当?」
「ほんとう。見たら分かる」
「やってみないとわかんないかもよ」
「ええー。そーかなあ」
掌にぽとり、と落とされて、糸居はその金属を摘み上げたり引っ繰り返したりしていた。僕がじっと見ていたら、「ん」と差し出してくれた。彼と同じように触ってみる。ひんやりした金属はすぐに人肌に馴染んだ。思ったよりも重量がある。知恵の輪って、時々不可思議なデザインのものがあるけれど、これはまた格別に変わっている。
ふと、視線を感じたのでそちらを向いたら、白柳がうっとりと僕を見ていた。瞬間湯沸かし器みたいに、首から頬、耳までが、赫と熱を持つ。中性的な美貌が蕩けたようになると、筆舌に尽くしがたい色気があるのだ。
「なっ、なななな、何…?」
「それ月下にあげようと思って買ったんだ」
「ぼ、僕に?」
「そお」と彼。深々と頷く。「良かったら、今日、それ遣って遊ぼうか」
「…これで?」
既に現時点で遊んでいると思うんだけど、と首を傾ぐ。
ふいに、ぬっと影が差し掛かった。気付くと同時に、掌に乗っていた輪っかが奪われる。噛み合わせを忘れたみたいに、顎をがくがくと振るわせている――――十和田、だった。
「この変態!あほ!何てもん持ってきてんだ!」
「ええー、エネマグラぐらい何てことないじゃん。つか、分かるんだ。流石トーワ、下ネタ大魔王だね」
「ウィンクすんな!知らない奴にこんなん弄くらせてんじゃねえよ!」
「帰一も知らなかったなあ。やっぱり分野違いかなあ」
「ふお、なに」と、糸居の双眸がきらりと光る。珍しい。目蓋が全部開いてる!
「それ知恵の輪違うん?十和田、知ってんの?説明せろー」
「あーあー、糸居先生の知識欲に火がついちゃったよ」
「テメェがガソリンぶちまけて火つけたんだろうが、このクソ柳!」
「十和田まで…、キューマじゃないんだから、人の名前にクソとかつけんのやめてよね。心外ですなあ」
「―――そんじゃあ聞くけどよ、この妙ちきりんなブツをぶん投げたのはどっちのクソだ」
はた、と応酬が止んだ。油の切れた機械みたいに、十和田が振り返る。大して気に留めた様子もなく、白柳がそれに倣う。糸居は軽い調子で手を振った。どこか色っぽい低音と、少し投げ遣りな喋り方。僕もおそるおそる、背後を見る。
額に赤い痕を付けた、ジャージ姿の久馬が立っていた。彼の手には先ほど十和田が投げた知恵の輪が握られている。ともすると、握りつぶしてしまいかねない勢いで拳が力を孕んだ。…とてつもなく、不機嫌そうな顔だ。
「よお、お前ら」と彼は言った。笑顔の形に向きだした歯が、何故だか威嚇に見えた。「オレにも納得いくようにしっかり説明して貰おうか。アンダスタン?」
その後はちょっとした地獄絵図だった。すぐに登校してきた輕子が僕の、呼ばれてやってきた立待が糸居の耳を塞いだ。その間、物凄く楽しそうに白柳が何かを話しており、虚ろな目で固まる十和田ともども、説明らしきものを聞き終わった久馬に足蹴にされていた。
あの知恵の輪もどきの正式名称がどうにも覚えられなくて、ヘッドフォンみたいに掌を当てるクラスメイトに尋ねたけれど、彼は黙って首を振るだけ。
「糸居も、月下も。…別に知らなくたっていいことがある」
「そっか…」
見ようによっては嬉しそうにも見える十和田を眺めながら(だって泣き笑いだったし)(因みに白柳は既に動かなくなっていた)、ほんの少し羨ましさを感じた僕だった。
>>>END...
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