(7)
「ちょ…、な、何してんですかあんた!」
「何してるもどうしてるも、食うんだよ、おれはこれを」
「それはいいですけど、いや、よかないですけど、何を入れようと…」
ひったくった口の広い瓶が、そこに詰まっている中身があまりに赤かったので、辛さで頭がおかしくなってしまったのかと思った。
慌てて確認したラベルには「イチゴジャム」の文字。見慣れた旗のマークが付いている。何の変哲もない、ただのジャムのようだ。
「当ったり前じゃん。唐辛子とか入れっかよバーカ」
「も、もう一つの、それは…?」
「ハチミツ」
黙るしかない。
ジャムと蜂蜜を入れて、果たして辛さが緩和されるか、よりも、そんなものを躊躇なく麻婆豆腐へ入れようと思う神経が、分からない。このひとの頭の中は一体全体、どうなってるんだ。
僕の気も知らないで、整った顔を真面目に引き締め、たららさんは言う。
「いつかのバレンタインのチョコについてたんだよなあ。ジャムとか蜂蜜って、賞味期限ないんだろ?まさか役に立つ日が来るとは思わなかったぜ」
「蜂蜜はともかく、」
ジャムは腐る時には腐ると思うけれど。試しに瓶をくるくる回すと、それとおぼしき表記があった。想像の通り…切れていた。
「これ、入れちゃ駄目です」
「えぇ、なんでだよ」
「つうか、賞味期限が大丈夫でも入れんなよ、って、こら!待って下さい!蜂蜜垂れてる!!」
「垂れてるんじゃなくて垂らしてるんだっつうの」
こちらに顔を向けたまま、しろい手だけが斜めに傾く。当然、黄金の蜜はするすると落ちていく。僕は頭を抱えた。
「せめて、砂糖とか…」
「砂糖ないし」
「え、」
「おれ、料理とか全然出来ねえもん。そもそも腹が減らないなら食わなくたっていい」
コメントすべき言葉すらない。厭な予感ばかりが的中する。
よくぞ、今まで一人で生きてきたものだ。現代文明万々歳だな。近所のスーパーとコンビニが、きっと、たららさんの生命線だったに違いない。
「…まあ、これからはそういう訳にも行かないけど」
小さく紡がれた呟きを、僕は愚かにも聞き逃していた。今からすればたららさんの所為にするつもりもないけれど、とにかく、彼の行動に釘付けだったからだ。
レンゲで麻婆豆腐をぐるぐると掻き回した後、たららさんは鮮やかなピンクの舌を出して味見をしていた。眉根に皺。蜂蜜追加。幾度か繰り返した後、普通に食べ始めた。
―――このひと、バカだ。
餃子も炒飯も、ノーマルな麻婆豆腐も、とても美味しかった。他のメニューも一度食べてみたいと思うほどに、彼のバイト先の店は確かな味をしていた。
父や、彼にとってのたまり場だったというそこに、僕もいつか行きたいと思う。
もし機会を得たら、店の人に、忘れずに言っておかないといけない。
父と僕は似ているかもしれないけれど、僕は辛党じゃないんです。じゃないと、絶対に同じ轍を踏まされる、確信がある。
その日を境に、僕らの生活にささやかな――けれど、確実な変化が起きた。
たららさんは夕方に帰ってくると、面倒臭そうにする僕を構い倒して、ほどほどの時間に夕食を出した。スーパーの弁当は減って、焼いただけ、もしくは茹でただけ、の料理がちゃぶ台を占領するようになった。夕飯を食べた後、少しお喋りをして、僕の隣で仮眠を取る。それから、仕事に出て行く。献立の単調さに辟易した僕が、料理番を代わったのは割とすぐのことだったと思う。
すげえ、と手放しに与えられる賞讃に、現金にも心がほぐれていった。髪をぐしゃぐしゃに掻き回す手や、気持ちが落ち込んでいるときを、まるで狙い澄ましたかのように抱擁してくれる腕が、恐ろしい早さで馴染んでいった。
その奥にある彼の真意を知らなくても、たららさんが父のことを過去形で話したがらない意味に気付かずとも、与えられる行為で楽になれた。
見慣れない室内は帰るべき僕の家になり、ずっとあった違和感は居場所を得た安堵へすり替わっていった。
―――僕は、ほんとうに、何にも知らない子どもだったのだ。
>>>END
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