(6)



顔面の穴という穴から汁が出る、という稀少、かつしたくもない体験をした。びぃびぃと洟をかむ度に、鼻の奥と喉が痛む。コップの水を飲み干し、足りずに炒飯を掻き込んだ。相殺されずに残った辛みが僕の気管を苛む。ひどい。ぐぶ、なんて悲鳴、生まれてこの方初めて発した。

「おいおい、大丈夫か…」
「ら、らいじょうぶにゃわへ、ないでふ…」

これじゃあまるで、僕の方が酔っぱらいだ。たららさんが薬罐に水道水を汲んできてくれて、コップに注いだ端から空にする。厭がらせだったり、からかっているわけじゃなかろうな、とじっとり睨むと、物凄く心配そうな表情に出遭った。
んん、と喉の調子を確かめてから、僕は深々と溜息を吐いた。

「…食ってみたこと、あるんですか」
「え、ない」
「……」

このひとは…。

「だってそんな凶悪な色してるもん、好んで食うかよ。お前の親父以外」

大体、慶って自分の食い物絶対くれないし、と、知りたくもないことまで教えてくれた。それって父が凄く狭量な人間みたいじゃないか。尤も、僕だってこんなどきつい味の代物、頭を下げてまで貰おうとは思わない。むしろ勘弁して下さいと言いたい。

「辛いの好きかと思って特注したのに。勿体無ねえなぁ」

ぶつくさと勝手なこと言う彼に、かちんとなった僕は皿を奥へと押しやった。

「じゃあ、あなたが食べて下さいよ」
「は?」
「勿体ないんでしょ。僕がそっちの皿貰うから、あんたがこれ食えばいいじゃないですか。父さんが生きてる頃は食えなかったんでしょう」

香辛料が脳を侵していた、のかもしれない。取り繕った喋り方も忘れ、赤黒い物体が入った器と、良心的な内容のそれを差し替える。文句を言う前に、自分も同じ目に遭ってみればいいんだ。子どもじみた復讐心が促すままに、僕は言い募った。

たららさんは、酩酊した、何処か危うささえある視線で、やってきた皿を見下ろした。

「…それも、そっか」

憤然としていた僕が一瞬で正気に返るほどに、彼の細い肩は頼りなく思えた。逆に、レンゲを掴む動作に躊躇いは無かった。
そんなに掬っちゃ、と制止する間もなく、麻婆豆腐は彼の口の中に消えた。




結果は詳しく説明するまでもないだろう。
化鳥のような奇声を発した後、たららさんは僕のために持ってきた薬罐の口にかじりつき、あっという間に中身を空にしてしまった。口を噤んだまま立ち上がって、素足が台所へ走っていく。僕はぽかんと後ろ姿を見守る。水を勢いよく出す音がして、ほどなく、薬罐と何かの瓶を片手に彼が帰ってきた。

「なんだこれ、やばい」

やばい、やばい、と繰り返しながら、胡座をかく彼の目は何処までもマジだった。酔いも一撃で醒めてしまったらしい。僕は既に凶器、いや、兵器と呼ぶに相応しい料理を怖々と見遣った。

「…だから言ったじゃないですか…」
「うん、お前の言うとおりだった。お前賢いな。これやばいよ」
「……」

いや、賢いとかそういう話じゃないと思う。あんたも同じもん、食ったじゃないですか。割とさっき。

「慶の奴、あいつ、味覚がどうにかなってるんじゃないのか」
「知りませんよそんなん…」
「あ、だよなあ。あいつさあ、人当たりが良い、っていうか猫被ってるっていうか、そういう異常性癖を上手に余所には隠すんだよ」
「異常性癖って…」

日常においてあまり聞かない単語を、しかも人の親に向かって使うんじゃねえよ。反論したいのはやまやまだったが、反射的に頷いてしまいそうになる。こんな料理を好んで食べていた僕の父。しかも世間には愛想良く通していたという性格は、非常に身に覚えがある。

三島 慶に似ている、というのは、僕にとっては疑うべくもない褒め言葉だった。だけど、…本当のところはどうなんだろう。
ぐるぐると懊悩しながら顔を上げ、飛び込んできた光景に僕は再びフリーズした。
台所から持ってきたあの瓶の中身を、たららさんが今しも皿にぶちこもうとしている!



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