(5)



隣の部屋で黒のフリースに着替えて戻ってくると、彼は、並んだ料理のラップを片っ端から剥がしている最中だった。黙り込んだ僕の姿を見、ちゃぶ台の向こう側をぱしぱしと叩く。

「ほらぁ、座れってばあ」
「……」

まさかとは思うけど、このひと、酔っぱらってるんじゃあ。
現に、頬にはほんのりと朱が挿しているし、口調もやけに明るい。疑念はすぐに確信に変わった。僕が着替えているごく短い間に、緑色の瓶の中身は残り4分の1ほどになっている。なんて光速の酔っぱらいだ。
こんなに陽気に笑っている彼を初めて見た。そもそも、酒を飲んでいるの自体、初めて見た気がする。呑まれてしまって、つい、おそるおそる対面に腰を下ろすと、僕が置いたままにしていたコップにがちゃんとビール瓶がぶつけられた。

「かんぱーい!」
「何にですか…」
「えー、…なんだろ…。あ、けい、お前考えろよ。頭いいんだから」
「意味わかんねえし…」
「ほら、十秒以内に決める!」
「いただきます」

酔っぱらいは放って置くに限る。多分。
何よりも視覚、嗅覚を刺激する中華の魅力には抗しきれない。いそいそと割り箸を手に取り、どれから食べようかと皿を覗き込んで―――、凍り付いた。

「…あの、すみません…」
「なんだよお」
「これ、何なんですか」
「ばーぼーどーふに決まってんじゃん。お前実はバカだろ」

ケタケタと笑う彼に突っ込みを入れることすら忘れそうだ。バーボードーフって何。
違う。違くて、僕の知る限り、麻婆豆腐というものはこんな攻撃的な色をしていなかった筈だ!
赤黒い海に、白く四角い物体と茶色のつぶつぶが浮かんでいる。おそらくは豆腐と挽肉だと判断する。間に浮かぶ黒い点は…よく分からない。その、主役と思しき具材よりも目立つのは輪切りになった鷹の爪だ。顔を近づけた途端、鼻の粘膜が痺れたような気がしたのは錯覚じゃないと思う。見た目からして超辛そう。いや、超なんて一語じゃ済まされない程、すっげえ辛そう。
皿の延長線上を視線で追っていくと、記憶と合致する、正しい「麻婆豆腐」があった。たららさんの前に、当たり前のようにそれはあった。

「あの、ひとつ伺いたいんですけど」
「なんよ」
「どうして僕の前にあるこれは、こんな凄い色をしてるんでしょうか」

料理名を言うのも憚られる。これは絶対に違う代物だ。地を這うような低い声で問うと、たららさんはビールを呷って、花が綻ぶみたいに奇麗に笑った。


「だってお前、辛い方が好きだろ」


そんなこと、言った覚えはないし、――第一、僕は辛党なんかじゃない。否定の言葉を継げようとして、被ったたららさんの台詞に、僕は沈黙した。

「――少なくとも、慶(けい)は好きだぜ」
「……」
「これ、いつもあいつが大将に頼んで作って貰ってるやつなんだよ。大将も懐かしがってさあ、すっげえ色だろ」

肩まで伸びた、淡い色の髪が持ち主の動きに合わせてさらさらと揺れる。同じ男なのに、奇麗だ、と不思議に思った微笑みは、よく見れば泣き笑いに近かった。胡座を崩したような、片脚を曲げ、もう片方の脚を立てた格好で、己の膝に頬杖をついた、だらしない体勢で、また、ビールを呑む。すっとした線を結ぶ目眦に、僅かに光る滴を認めて、僕は息を呑んだ。


このひとの処で世話になろう、そう決めたのは、彼が父母の為に泣いてくれたからだ。僕を憐れむよりも先に、最も大切な思い出と、肉親とを、同じように惜しんでくれたから。


「…父さんのこと、けい、って呼ぶんですね」

父の名前を、僕と同じ音で彼は呼ぶ。たららさんの問い掛けに特に同意することもなく、僕は料理の皿を引き寄せた。

「あぁ、だって、慶(はるか)って女みたいで厭だってうるせえんだもん」
「そう、だったんだ…」

全く紛らわしい名前を付けてくれたものだ。初めて聞くエピソードに、苦笑しながら、赤黒い麻婆豆腐へレンゲを差し込む。父母の親友であったという、このひとが何の衒いもなく僕の名を口にするのは、多分にそれが理由なんだろう。
感傷的な気持ちに後押しされて、匙を口許へ運んだ。僕は格別に辛いものが好き、という訳じゃないけど、父が好んで食べたものを自分も味わってみたかった。僕の中にそんな感情があった事実はまた、驚くべきことだった。

―――真に仰天すべき現実が、直後にやってくることも知らないで。



舌が赤いソースに触れた刹那、びり、と痺れが奔った。まさかな、と思いながら中身を流し込んで、

「ぐっぶ、ぶは、がっ…!!」

…悶絶した。




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