(2)



とにかく、そんな風に苛々と帰宅した、ある日のことだ。
季節は確か冬で、奇妙な同居人――転がり込んできたのは僕の方なので、これは彼の台詞だろうが――との生活にも少しは慣れ、しかし相手のことはまだよく分からずに、取りあえず、毎日を過ごすのに必死だった頃。
たららさんは仕事を増やしていたし、僕は彼と仲良くしようと思いつつも、結局は自分のことで手一杯だった。ほんとうに、疲れていた。つまり、考えていたほどには「老成」なんてしていなかったわけだが、そのことに思い至ったのは随分と後だ。

仕事を増やしたたららさんは夜、家を空けていた。夕方四時過ぎに司書の仕事を終えて、夜の九時に中華料理屋へ行く。昼の仕事も夜の仕事も、シフト制だったが、休んだり家に居たりするのは稀だった。僕が来る前は図書館勤めだけだったし、全日業務だったから、これは義務教育の被扶養者が突如発生した故の結果なのは明らかだった。
それについて彼が僕を責めることはなかったし、僕が表面だけじゃなくて、心底から罪悪感を得るようになったのは―――、これも先の話になる。要するに、僕は、厭な「子ども」でしかなかったわけだ。
(ここだけの話、母の手紙を見ただけで見知らぬ少年を受け入れたたららさんを、一度は異常な性的傾向の持ち主かと疑ったことすらあったのだ。自分の方が余程おかしかったことは程なく実証される。)



陰気な茶色のペンキで塗りたくられたアパートの、階段は歩く度にぎいぎいと軋む。ところどころ塗装が禿げた柱には、経年の所為で文字が読み取れなくなった看板が掛かっている。2階の、4部屋ある中で最奥の角部屋が、たららさんの借りている住まいだ。渡されている鍵を鍵穴に突っ込むと、がちん、と派手な音がした。

ただいま、と挨拶をしても帰ってくる声はない。これは母の生前時と違わない、数少ない共通点だった。
学ランをハンガーに掛け、手早くブラシをすると、シャツと制服のズボンだけの楽な格好で、台所へ出た。湯沸かし器なんてついていない。蛇口をひねって、コップに水をあける。

二間あるとはいえ、居住空間としては実に小さな部屋だ。バスとトイレがセパレート、と言っても、古い家だからこそ別れているだけで、洗面台は無し、風呂は寒いし、トイレは牢獄のように狭い。母と住んでいた部屋よりも古い、如何にも昭和、といった雰囲気である。
外見だけじゃない、居間として使っている六畳間の中も、とても簡素だ。
目に着く家具といったら、年季の入ったちゃぶ台に、積み重なった衣装ケース、段ボールの上に置かれたテレビ、背の低い、古びた書棚くらい。「資料組織演習」とか「図書館経営論」などというタイトルが、磨りガラスの向こうに滲んで見える。おそらく彼の、大学時代の教科書か何かなんだろう。隣の部屋は六畳半で、かつては専ら寝室に使われていたらしいが、今は僕の教科書や衣類が置いてある。
カーテンは渋い柿色で、でも、もしかしたら臙脂か赤が色褪せて、変わってしまただけなのかもしれない。内側のレースは、現に日に焼けて茶色く変色している。
一番まともなのは尻の下に敷いているラグだ。フローリング(もしかしたら単なる板張りかもしれない)の硬さや寒さを回避する為に用意された敷物は、比較的新しいのか、起毛もきちんとしていて肌触りがいい。比喩表現じゃなく、煎餅なみの薄さになっている座布団を重ねれば、大分座り心地はましになる。

見回しても見回しても、慣れたものなんてひとつもない。先ほどまで着ていた制服ですら、酷く異質に感じる。余所余所しさが攻撃性を帯びて、体を外から圧縮しようとしているみたいだ。
落ち着かない気分が塗炭の苦痛を僕に与える。たららさんに文句があるわけじゃなく、境遇を悲嘆するつもりもない。なのに、こうしてひとりで、閉め切った、狭くて見知らぬ空間にたった独りで座っているのはとても、


「…ただいま」
「―――っ」


鍵を掛けるのを忘れていたのだろうか。特に物音もなく、人の気配も感じず、唐突に掛けられた声に、驚いて振り返った。

たららさんが立っている。



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