子どものころ



たららさんと同居する前後のことだった。
一週間以上にもわたる長い忌引、担任の説明により、母の死はクラスメイトたちに伝わり、僕は「可哀想な子ども」の烙印を押された。回避する術などある筈もない。

「元気だせよ」と直截に応援してくれる友人たちは鬱陶しかったが、気持ちは有難たくはあった。問題は彼らの親や、以前から僕を遠巻きに眺めていた女子の方。
語られる内容が憐憫に溢れていたとしても、陰口をたたかれているみたいで気分が悪い。どこから仕入れてきたものか、幼い頃に父をも失ったことまで話の種にされていた時は、苛立ちを通り越して腑が煮えくりかえるようだった。

可哀想なんて思って欲しくない。憐れまれるのも御免だ。腫れ物に触るような、という表現があるが、まさに今の状況がぴたりと合致する。


学校における僕は、いわゆる「優等生」だった。入学以来、学年成績を常に三位以上で堅持していた。中学生にしては上背が高く、しかし、ウドの大木が如くただひょろりとしている訳じゃない、なりに筋肉があって、顔もそれなりに整っている自覚はある。母はきれいなひとで、記憶の向こうで笑う父は同性からしてもかなり見目の良い男だった。たららさんによれば、僕の外見は後者と非常によく似ているそうだ。
女の子たちは、しばしば、僕と見知らぬ上級生の女子をくっつけたがった。三年生の某先輩は三島君のこと好きらしいよ。うちらじゃ相手にもされないよね。そんな、逢ったこともない先輩より、日頃親しく口をきく女の子の方が良いに決まっているのに。
母親を失ってからは、そういった噂話はなりを潜め、代わりに同情の視線が錐のように僕の体に突き刺さった。まだ、前みたく観賞用扱いされている方がマシである。

また、僕はその年齢にしては、自分の魅力とか能力のようなものを把握出来ている方だった。どうすれば人の気を惹けるか、とか、大人が満足する答えを(偶然を装って)示せるかを、よく理解していた。
そつなく立ち回っていたお陰で、女子にはもてたし、同性異性は問わず、友人も多かった。先生からの信頼も厚い、まさに絵に描いたような優等生ぶり。無理をしていたつもりはない、そうしている方が楽だったのだ。嫌われるより好かれている方がいいに決まっているじゃないか。


僕は、うまい言い方をすれば老成、悪く言えば、あまりにも諦念に充ち満ちていた少年だった。そして、厭な子どもだった。



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