(3)



「驚いた?」
「…驚くに決まってんだろ…」

軽く焼き直したパイを天皿から取り出し、粗熱が飛ぶのを待ってからナイフを挿し入れる。恨みがましくぶつくさ言う俺の背へ、冬織の嬉しそうな声が降る。
口の端がつい吊り上がってしまう、見たら彼はきっとからかうに決まっているから、どうしたって正面を向けない。嬉しいのは俺だって同じなんだ。

この部屋においての、俺の第二の居場所、台所の作業机に椅子をひき、長い脚を組んで、冬織は立ち働く俺の姿をじっと見守っていた。
ふとした具合で目が遭う度、恋人は柔和に微笑んだ。こちらが気恥ずかしくなるくらいの情愛を籠めて。鉛丹色の、さらさらとした髪を物憂げに指で払い、さらによく見ようと視線の力は強くなる。切り分けたパイを皿に載せたまま、俺は立ち尽くした。耳が赫々する。勘弁してくれ。

「青梧、目の際まで赤くなってる」
「うるさい」

久々に逢えたというのに、冬織の態度は至って余裕だった。尚かつ、意地が悪かった。
こちらばかりが浮き上がっているみたいで、さらに羞恥が増す。

差し向けられた好意が言葉もなく分かるのは、実は結構すごいことだと思うのだ。ただ、自分自身のそれが相手に対して駄々漏れなのは、…なんだ、少し、辛い。しかも俺の場合、冬織の挙動に触発されるみたいに漏れ具合が酷くなるので、余計に居たたまれない。

「ねえ、なんでこっち見てくれないの?」
「…見てる、」と、吐き捨てるような返事をした。即座に後悔だ。「…見てるから、お前はこっち見んな!」
「え?」と彼。くすくすと笑う。「…厭だね」
「……」

くそ。やっぱり意地悪だ。

「失礼だなあ。単に機嫌がいいだけだって。そんなことはいいから、おいで。話がある」

冬織は、デニムにくるまれた膝の上をぽんぽん、と叩いてみせた。…俺は犬か。
溜息を吐きつつ近付くと、腕がぐん、とひかれる。

「な、」

皿の上で黄金色のパイが慌ただしく跳ねた。何とかバランスを取ろうと前のめりになったところを、恋人の開いた足の間に挟まれた。

「おい!」

頬ずりをされ、甘い吐息が耳に掛かるだけで腰が砕けそうになる。心臓が、痛い。今すぐ消えてしまいたいのだが、何処にも行きたくない。壮大な矛盾に、頬を赤くしたまま苛々と歯噛みをした。
せめてもの抵抗だ、と、給仕のように皿を掲げ(机に置くことすら失念していたとも言う)、顔を背けた。
しかし、これも、まずかった。冬織の首元に頭を埋める格好になり、麝香と、彼自身の香りで脳髄が痺れた。僅かに香った別の匂いには敢えて意識を向けないようにする。それは、彼が眠っていた時間の出来事なんだ。

興奮と絶望とで、呼吸が怪しくなる。息を呑んだのがばれたのだろうか。触れあった身体から、恋人が喉を鳴らした震動が伝わってくる。

「青梧にも朗報だと思うぜ」
「お、俺に…?」

ビロウドみたいに滑らかな声に、潜んだ獰猛さを認めてぞっとなる。寒気とは違う理由で、だ。
両膝の間に俺を挟み込み、動きを封じた上で、大きな骨っぽい手が背中から尻をなでさすっていく。背骨の継ぎ目のひとつひとつを探り、尾てい骨までをじっくりと象るように。

「―――…っ、」

その、反対側の部位が急速に熱を持ち始める。あまりにも単純で、動物的で、最悪だった。さらに最悪なのは、囲う冬織の股座も衣服の上から分かるくらいに、同じく張り詰めているということ。「寒気じゃない」理由。否定したくて、つい可愛気のない言葉が口をつく。

「おま、時間…っ」
「分かってる」

冬織にはいつだって、一欠片の冷静さ、理性が残っている、と思う。熱心な抱かれ方をされると、訳が分からなくなってしまう俺とは違う。「分かっている」と応じた彼の声はまさにそれを証明していて、だのに、手だけは着々とズボンの縁から下着へと潜り込んでいく。平たい尻を揉みしだかれ、奥の口を指先で押され、ついに叫んでしまった。声が情けなく裏返ったのは言わずもがなである。

「言ってることとやってることが違う!」
「あの男は彼女と別れたよ」

―――は?

「別れ、…っあ、」
「固い」
「馬鹿野郎!」

何処の何を指しているのか、理解が出来たから、怒った。空手で突き飛ばそうとしたのだが、もう片方の皿のこともあってうまくいかない。本気を出したら、俺よりも冬織の方が若干、力は強い。少しの年の差が原因だと思っているのだけれども、しっかり食べ、しっかり運動を心掛けている己からすると悔しい点である。

ごそごそと背後から手が引き抜かれ、ほっとしたのもつかの間、冬織はさらにとんでもないものに手を出した。作業机の上には、パイ作りの為の材料が残っていた。砂糖、生クリームの空箱、使わなかった銀の重石、小皿にとりわけたバターの余り。
その、バターの欠片を優雅に指先で摘み上げると、呆然としている俺の目の前でこれ見よがしに舐めた。運指をミスしたピアニストのように、慎ましやかな程度に口脣が歪んだ。決して、そのまま食べて美味いもんじゃないだろ。厭な予感よりも、窘めるつもりで口を開き掛けた、とき。

「ひっ、」

べたり、と素肌を汚す感触が。あるかなきかの曲線に沿って、掌が下へと降りていく。熱い。それに、べたべたする。本格的に暴れ始めた俺を、咎めているのか、恋人の双眸がすうっと眇められた。

「ぐ…っ、うあっ…!とおるっ!」
「青梧が浮気なんてするわけないって分かってるのにな。逢ってないと、不安になる」
「お、れ、だって…」

言いかけて、止めた。冬織の不安と、俺のそれは、また質が異なるものだ。
一時間の枷に縛り付けられている彼を、他ならぬ俺が信じてやらなくてどうする。だから、責めたりしてはいけない。帰ってこられないのだって、冬織が悪いわけじゃない。…観春に責があるのかというと、これまた違うのだから面倒なんだ。

「クソ…っ、ふ、やだっ、」

じゅぶ、と音がしたのは幻聴だったかもしれない。けれど、冬織の、あの奇麗な指の先が俺の菊座を犯しているのは確かだった。反射的に逃げを打って、しっかりした体躯へ身体の前半分を押し付けてしまった。熱が集まり始めているところが擦れて、―――呻く。

「アイツは女と別れた」と、静謐な声が繰り返した。
「…正しくは、俺が別れさせたんだ。青梧は聞きたくもないかもしれないけど、さっきまで、一緒に居た」


(「…知ってる」)



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