(4)
闇よりなお昏い、黒い長髪と黒い目。細い体躯。跡俐よりもさらに数年若い容貌は、寒気がするほどに整っている。蜜月の美しさが現世のものであるのなら、このひとのそれは隔世のものだと思う。どんなに記憶に焼き付けても、出逢う度、畏れは増すばかりだ。
少女なのか、少年なのかすら分からない。雌雄の別など、無いのかもしれなかった。
「…お久しぶりです、北君。…起きて、よろしいのですか」
『へいき』
袖から零れた腕が、燭の首に絡んだ。笑いの形に開いた口の中は、鬼灯のようにあかく、彼のひとの聾(こえ)は、楽音に似て、頭の中に響く。緊張にばくばくと煩い胸を押さえ込んで、ぎこちない笑顔を作った。
「今は、春御方の御代かと存知ますが、」
『しつこい。しつこいのはきらい。へいきって、いった』
「…申し訳ございません」
『いまの群青は、うるさいことはいわない。じぶんのことでいっぱいいっぱいだもの』
ふふふ、と軽やかな声が嗤う。小さな身体をぶら下げたまま、黙している蜜月へ視線を飛ばすと、彼女はこくりと頷いた。
それでは、…春苑の庭師は変わったのか。
「…稀人(まれびと)であると聞いた」と、ようやく蜜月は口を開いた。
「黄泉(こうせん)からか。…それは難儀なことだな…」
『そんなにたいへんでもない。はるのは、きもちいいことだけしてればいい』
「…『きもちいいこと』?」
訳も分からず鸚鵡返しに問うと、百花王は首を横に振った。
「北君、なりませぬ」
『だってほんとうだから。ほんとうのことをいってなにがいけない?あれはたくさんあそんでもらえばいい、おのれのつがいに。
ひとはいつでもよくをかかえている。ちくしょうですら、じせつをわきまえているというのに。あしをひらかば、たのまずとも、いくらでもおかしてくれるであろうよ』
「……」
『それがはるの、さが、だ。あれは、くわれてこそそんざいができる。ふゆの、たいになるもの』
抑揚のなく紡がれた台詞をかみ砕き、理解に努めようとした矢先、左耳がじん、と痺れた。
「…っア?!」
『しょく、また、しょくのなかにはいりたい。たべたい』
「き、たの、きみ!ちょ…痛って、…ィッ!」
ほおずりをしていた玄が、耳にかぶりついている。先端の、尖っている部位に遠慮無く歯を立てられ、痛みが奔った。肉に、ぎりぎりと鋭く硬いものが食い込んでいく。時折舌でねぶられると、全身の毛という毛が毛羽立つようだった。反射で身震いがでる。それを煽るように、舌先が耳の、襞になっている部分をなぞった。
「駄目、です、よっ、って…ァ、言って…」
抵抗すると、ぬるったい感触がふっと消えた。離してくれたか、と思ったら、えらの下あたりにちり、と疼痛が。陶器で出来た鳴り物に似た、涼やかな笑い声をあげながら、口脣が押し当てられている。
『しょくのなか、あたたかいから、――――すき。あそぼう、しょく』
「はいはい!わかりました!わかりましたから、落ち着いて北君!」
『せっかくおきたのにあそべないなんてつまらない。みづきは、がりがりでおいしそうじゃないし』
「お戯れはそこまでになさいませ。これにはもう、番が出来申した」
燭の胴体を挟み込む裳の脚に、窘めるようにして蜜月がそうっと触れた。それを機会に小さな身体を抱き直し、それとなく距離を作った。白皙の面に不満げな色が浮かんでいるのに、苦笑する。
春御方は、その強すぎる力を発散させるためにひとの力を借りる、と聞いたことがある。北君もある意味では同じだ。但しこのひとは、借りるのではなく、奪う。
そして、食べる。
「燭」
「なんだ」
「その番のことで話があって来たのじゃ。北君が妾に教えて下さった」
「…アトリが、どうかしたのか?」
肩に全身をもたせかけた玄が、顔を寄せ、囁きかけてくる。その内容に、茫洋とした燭の目は大きく瞠られていった。
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