(8)



燭の話は、想定内の話だった。碩舎で、老師に言われていたことでもある。
驚かないどころか、怒りを示さない自分に、番は眉を顰めていた。まるで自分が貶められたかのように、目は批難の色を湛え、口を真一文字に引き結んでいる。

「僕の成績が、ほんとうは第二位の榜眼であったこと。それから、お役目は翰林院付きではなく、巡境使(じゅんきょうし)となったこと。…そう、驚くことでもありませんよ」
「お前。何でそんなに落ち着いてんだよ。…巡境使っつったら、」

庭の境界を守り、蟲が襲ってきたらまず初めに槍となり、盾となるのが防人だ。
彼らを束ね、あるいは先んじて蟲を狩りに出るのが「巡境使」。花護でも、身分や成績が特に低い者、駆け出しの者が就く職務である。間違っても、探花の成績を修めた者に下される役目ではなかった。使い捨てにも等しい、激務。

「理由は、聞いたんですか」
「……」
「当ててみましょうか。…僕の出自、でしょう」
「そう、はっきりとは。ただ、お前の名前が…不吉だ、と。かつて執政を弑逆した者と、名前の音が同じだから、ということだ…」

はっ、と堪らずに嗤いが漏れた。燭の案じるような視線が刺さるのも構わず、くつくつと喉を鳴らす。お偉い、旗人たちが言いそうなことである。

「確かにそのような臣がいたようにも、思いますが。…成るほど、うまい言い訳ではあるか」
「花精は官吏の人事には、原則口を出さない。人の仕事だからな。だが、蜜月――百花王は、異議申し立てがあれば受けると言っていた」
「………」
「…どうする」
「構いません。このままで」
「おい、」

正直、貴族連中に埋め尽くされた宮殿で勤めるのは、想像だけでも辟易した。翰林院が随一の出世街道だということは充分に理解の上、それでも、だ。

跡俐自身は蟲を見たことはないが、ともすると人間の方が余程、恐ろしい存在ではないのか。死の危険は偏在するものだ。堅固な塀の中に隠れていたからとて、どうにかなるものでもない。
倖い、腕には自信があった。難しいことは考えず、つるぎを振るってさえいれば良い方が遙かに楽な気がする。

「僕は、出世は希んでいないんです。ただ自分で稼いで、自分で飯を食えればいい。花護は単なる手段で、…たまたま才があったから選んだだけのこと」

音曲の才能を持つ者が笛を手に取るように、詩才のある者が筆を選ぶように、花護になった。運良く、花精もついてきてくれた。それが、燭。道具ではないのかもしれない、それでも、花護と花精は利害の一致で成り立つ番、なのだと思う。

「…お前、」
「僕なにか変なこと言いましたか」

石畳で舗装された道が途切れ、さくさくと鳴る霜を抱いた土の道へ出た。その足音が止み、跡俐は隣を見上げる。花精は相変わらず、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。赤い眼にじっと見下ろされると、奇妙な興奮と―――居心地の悪さを感じる。
理屈で解決できない感情というのは面倒なものだ。なので、努めてどうでもいい様子を装った。実際に、順位や職務についてはどうでも良かったから。

「こう見えても、結構強いんです。それに、経験の足りないところは、あなたが補ってくれるんでしょう」
「……そう、だな」
「出立は、いつなんですか」
「…一週間は準備に猶予が与えられる。初めの赴任地については文書が出る筈だ」

あまり寒いところじゃないといいな、と付け足された声は、唐突なまでに軽い。跡俐の口調に乗っかったとも思える。有難い半面、気遣われているみたいで、釈然としない。

(「…それこそ、駄々をこねる子どもじゃないか」)

「寒いのは、苦手ですか?」

ふと過ぎった思いを払拭するように、燭の言葉を拾う。彼は重々しく頷き、おそらく無意識にだろう、襟元をかき合わせた。白い胸元が、黒衣にくっきりと覆われたが、細い顎の下についた痕は、明かなままだ。
歩き始めた横顔は先ほどの複雑さはないものの、やはり小難しい顔をしている。

「曲がりなりにも花の精だぞ。程度問題だ、寒さも」
「あはは、そう、ですね」

袷から離れた彼の手が、隣で揺れている。
数日前に繋いだ感触も、さきほど諫められたときに感じた重みも、己の手は、焼き印のように記憶している。

(「…僕はこのひとを、どうすればいいんだろう。…どう、したいのだろう」)

妻のように遇するべきなのか、…単なる、道具なのか。愛着の沸いた道具は自分の手足ほどにも思うと、聞くことはある。

結論は、急ぐべきではないのかもしれない。
すべては、赴任地へ向かい、初陣を迎えてからだ。それまでは自分の思うとおりに動けばいい。

決めて、彼の隣に並んだ。



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