紙のような安堵(8)
「ほひょ、はにゃひへ、おはん、はべはひゃ」
「飯なんて後だ!つまりだ、そういうよもやまの所為ですんごいモヤっとしてんの!わかる?!不本意だったんだ!不可抗力だった!」
「わふぁる、わふぁるから」
彼の指が、肉が、僕の歯にかつかつと当たる。口を引っ張り直す度に、歯の臼の部分にやわらかい腹の部分が触る。その度に昼ご飯で埋めるべく開けられていた胃がきゅう、と鳴った。空腹感は加速度的に増大している。まるでブラックホールみたいだった。
斗与の怒りは僕、よりも、望まないながらもラブレターを届けてしまった自分の行為にこそ向かっている、ということはよく分かった。よく分かったけど、さらに体勢を深く倒してきたものだから、僕の焦りは本物になった。
「わひゃっひゃはら、はなひて!」
「俺は―――――」
「対、面、座、位!」
ぴれぽろりん、と間抜けた音がして―――いや、それよりも、あまりにふざけた発言に、僕らはそちらを見た。自身が口にした言葉を四字熟語だと勘違いしていそうなシャケ、もといバカシャケが、メタリックゴールドの携帯電話を僕らに向けていた。
「お、よく撮れて……」
シャケは画面を確認してボタンをかこかこと押している。斗与はするりと膝から滑り降りて、彼の脇へ立ち、振り向き様に手の甲を繰り出した。僕は行儀良く目を逸らす。ごぐ、と鈍い音と共に机や椅子らしき物が倒れる音がした。
「おっぱぁ!」と謎な悲鳴を上げるシャケ。
「って、茶髪三兄弟!お前ら痴話喧嘩すんなら廊下でやれって言ってんだろお、毎回!」
シャケの前の席、相合君がコンビニ弁当を持ったまま立ち上がった。彼の机は倒れ、べろりと伸びたシャケが引っかかっている。相合君は「アイオウ」という、出席番号先頭を中々逃れ得ない名前の所為でシャケの前の席に落ち着いている、僕と似たり寄ったりの不幸さ加減の人物だ。心も結構広い、いい人だ。
「兄弟じゃない、って言ってる!」
裏拳が痛かったのか、斗与は手の甲を摩りながら言い返している。シャケが携帯に見入っていたからこそのクリーンヒットで、元来、彼は荒事には向いていない。背も低いし、力の入れ加減も滅茶苦茶だ。手を痛めていないか、心配になった。
「だって似鳥センセーが言ってんじゃん。お前ら三人揃って茶髪三兄弟」
相合君は立ったままで弁当を食べることにしたらしい。厚焼き卵を囓りながら、視線がシャケ、斗与、僕とピンポイントに移動する。その目に促すような色を認めて、僕はシャケの肩を掴んで椅子に凭せ掛け、クラスメイトの机と椅子を直した。
「ごめんね相合君」
「いーのいーの。大体斎藤があそこまで怒るのも珍しいし。マジで痴話喧嘩?」
対面なんとか、とか新蒔も言ってたし、と暢気に続けられて、さあ、と血の気が引いた。ゆっくり背後を確かめると、斗与は頬を膨らませたまま、シャケの携帯電話を操作している。撮られた写真を消しているようだ。良かった、聞かれていない。
押し所を間違えたのか、現れたアドレス帳を見ながら呻いている。
「ついでに俺のアドレスも消したい…」
「余計に絡まれるから止めた方がいいよ、斗与」
携帯の赤外線通信を「合体!」と叫びながら遣るような男だ。あんな辱めは一度で充分だと思う。
「分かってる。言うのはタダだから言ってるだけ。ああ糞、会社違うからよくわかんない」
それでも必死にしばらく格闘した後、僕が見た彼の表情は随分すっきりしていた。騒いで逆に落ち着いたところもあるのかもしれない。
「斗与、手、大丈夫」
「へいき」
「ごめんね」
「あ?」
「ごめん」と僕は繰り返した。「色々、足りてなかった」
「何が……って、ああ、いい。つうか、俺こそ悪かった。ごめん」
八つ当たりだ、と小さく呟くので、「知ってる」と返すと彼は下唇を噛んでいた。
「でも指、とか。ちょっと困った」
「…………」
斗与の目が大きく瞠られて、唇周りの色が褪せて、僕は慌てて自分の失言を悟った。しかも、先に謝罪をしたのは斗与の方だった。
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