紙のような安堵(6)



【由旗】


常々思っていたことなのだけれど、ばかの代名詞はシャケで、シャケの代名詞は新蒔大輔だ。彼に会うまでは、幼稚舎とか、中等部からのエスカレータ組に対するイメージなんて特になかった。お金掛かって大変そう、とかそれくらいだろうか。
現在では他にエスカレータの知り合いが居ないことも手伝って(エスカレータ組は大体特進に入学するからだ)、印象は最低最悪。他人を見たら盗人と思え、ではないけれど、エスカレータを見たらシャケと思え、みたいな感じ。自分でも酷い極論だってことはよく分かってるけど、それくらいにシャケはどうしようもない。

「―――結局、匂坂の用事って何だった?」
「は?サギサカ?」

今日の弁当は昨日の夕食の残り、スーパーの安売りで祖母が大量に買ってきた焼き鮭だ。残るおかずもいつも通り、茹でた野菜やレトルトのミートボール、玉筋魚の釘煮が入っている。我が身内ながら凝った料理とは無縁の人だ。夏休みや冬休みの度に祖母に預けられていたから、僕は舌が慣れているけれど、例えば黒澤君なんて、時々複雑そうな顔をしておかずを見つめていることがある。
そんなことを考えながら箸を取っていた僕は、シャケの一言に思わず、弁当箱の中の切り身を串刺しにした。

「そそ、匂坂よ。昨日来たっしょ、サイトーんとこに」
「……………」

ああ、この男本当にどうしようかな。
出来ることなら4月まで時間を巻き戻してしまいたい。やり直しだ、人生の精算だ。まだ16歳だけれど、僕には後悔があまりに多すぎる。
「席の前後っていったらイコール、ダチになる宿命ってことで、今後ともヨロシク」と支離滅裂な挨拶を繰り出してきたばかを、(そのときはまだ黒髪だったとは言え、)何故警戒もなく受け入れてしまったのだろう、この考え無しめ。我ながら情けなさ過ぎる。
でも答えは分かっているんだ、斗与が隣の席に来たから嬉しくて嬉しくて、周りなんてどうだって良かったから。
仕方ないよね、そんな天の恩寵と神の祝福を根こそぎかき集めて、盆と正月を盛り付けてクリスマスを乗っけたみたいな展開になったら、どんなに用心深くてもよろめいてしまうと思う。
なので、シャケ曰くの「宿命」を認めるのは御免被るけれど、災難とするならまだ納得だ。こういうことを人災、っていうんだ、きっと。だから僕がこの男と食事を共にする今の結果も、全く仕様のないことなんだ。

斗与はたっぷりと黙っていた。彼も同じメニューの弁当に箸を付けていて、茹でたブロッコリーを摘み上げたところだった。緑の花序を数えるようにじっと睨み付けた後で、「サギサカ」と彼は繰り返した。

「昨日、黒澤が言ってたな。その名前」
「は?あークロサワって、あれな、お前らの同居人な。でかくて難しい顔したやつ」
「………」

黒澤君。サギサカなんて知らないって言ってた癖に。

「サギサカって、……昨日俺を訪ねてきた特進科…、あのちっちゃいやつだよな」

自分の背の低さを棚上げした斗与は、特進の生徒のことをそのように称した。シャケはうん、と頷いている。

「イエースザッツライ」
「…あいつって、お前の知り合いなの」
「知り合いっうか、ワケアリの仲って奴だよなあ、なあ大江!」

そこで僕に話を振るわけね。……本当に、どうにかしてやりたい。
僕は顔を上げずに鮭の切り身をフレーク化する作業に勤しんでいた。面と向かって罵倒することなく、あくまで代替物で怒りを堪え忍んでいる優しさに、シャケは気が付かない。なあなあ、と机に這い蹲って覗き込んでくる。そして、固まった。
僕は多分、口だけで笑っていた。

「……昨日、僕が何て言ったか憶えてる?」
「………………」シャケは黙る。それから、
「オレさー、ちょっと前から思ってたんだけど、たぶん、リセットボタンついてんだよなあ」
「リセットボタン」
「そおそお!なんつうか、昨日のことなんて夕日の沈む海に捨ててしまえ!みたいな!今を生きるぜ!って感じ?」

「それは、要約すると僕が言ったことは忘れたってことだよね」
「あー、まあ、それ的な感じ」
「…人生ごと、リセットしていいよ」

口の端がぎりぎりと音を立てて吊り上がっている気分。昨日歪めたプラスチックの箸は今度こそ決定的に曲がった。未だに低い視界の隅で、囓りかけのツナマヨおにぎりが小刻みに震えている。僕は使い物にならなくなった箸を置き、遂に頭を上げた――――ところで、シャツの襟がぐい、と無遠慮に左へ引かれた。

「!」



- 10 -


[*前] | [次#]
[目次]
[栞]

恋愛不感症・章一覧

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -