羅針(3)



選挙管理委員会の本部で立候補の届け出を出し、襷や選挙要項を受け取った。思ったより荷物になってしまったことを後悔しつつも、一度決めたことだ、そのまま特進科棟4階へ向かった。
段々と見慣れた開襟シャツ、ポロシャツに黒のスラックスが減っていき、ラウンドカラーにベスト、柔らかいアスコット・タイ、フレンチグレーのスラックスといった取り合わせが増えていく。比例して、膚に突き刺さる視線も鋭く深くなっていく感があった。

階段を上り、渡り廊下を過ぎる。
見晴らしが良く、どこもかしこも掃き清められ、やたらと洒落た建屋に差し掛かかれば、完全に空気が変わった。
空調は温度も湿度の適度なものに調えられている。上履きをスリッパに履き替えて歩く俺の他は、全員が革靴かスニーカーだ。ここは大学のように土足が赦されている。

普通科においては小汚い上履きを踏んだり、ぞろっとしたシャツを来ている奴なんてぼちぼちいるが、すれ違う連中は誰も彼も、何処までも整ったなりをしている。身につけているアクセサリーもどことなく値が張りそうな代物だ。

被害妄想でなければ、俺が踏み込んでいるのは、珍しいもの、異分子を見る目の真っ直中だ。背を正し、絡みつくそれらを引きずりながら、扉の上についたクラスの表示をひとつひとつ数えた。


『―――先輩は…』


朝方、(恐らく)初めて共に登校した斎藤が、躊躇いがちに発した言葉を思い出す。

あいつは一体何を聞こうとしていたのだろうか。軽くかまをかけたが、夏彦のことでは無さそうだった。

話す度にいい意味で色々と裏切られる奴だ。外見はかなり華奢で温和しめだが、中身はどうして相当な頑固者だった。喋っていると反応が面白いので、ついつい余計な事まで言ってしまうのがまずい。初めて逢った時にしろ、その後にしろ、どうも斎藤は俺を警戒している節がある。こちらとしては特に何かした記憶はないのだが、初対面で女に間違えてしまった失敗が相当に響いているようだ。


ありありと、昨日のように思い出せる光景がある。

朝まだきの、靄が薄く残る境内で素振りをしていた。空気を鋭き切り裂き、ひたすらに真芯を捉えて竹刀を打ち振るった。人の面や胴や小手を、同時に、からだでなく打ち倒すべきものを心の的として、腹の底から声を出した。
本当は当たり前だが素足がいい。砂利にスニーカーでは安定が悪いし、何より落ち着かない。やはり武道場が開けられる時間になったら即学校に行こう、と思っていた時だ。

下宿の二階の窓がからりと開いて、カーテンをかき分けこちらを見下ろす人物が居た。
物音と言ったら鳥の声やごくまれに通る自転車くらいのもので、修行不足にも俺は即座に乾いた音の方角へ意識を逸らしてしまった。
目に映るすべてを見落とすまいとするかのように、彼(その時は彼女と思っていた)は、強い視線を投げかけていた。本当に小柄で、髪は朝日に煌めいて明るいキャラメル色に輝き、身に纏っていたシャツが仄白く浮かんでみえた。
冷たい空気の中、シェークスピアの悲劇の姫に似た立ち姿は酷く清冽なものに感ぜられた。
もしかしたらそうであれ、と俺が願ったからこそ、見間違えたのかもしれない。今は、そう思う。

実際の『斎藤斗与』という人間は―――ごく短い期間で得た印象であるが―――、ある一線までは見事なまでに自制が利いているようだが、そうではない時の差は極端だ。
年上だろうと何だろうと、食って掛かる辺り、どちらかと言えば短気なのだろうか。だが、大江には好きなようにさせているみたいだし、な。
あの二人は本当に仲が良い。揃っていると斎藤はいつも通りだが、大江に至っては螺旋やら留め金やらを喜んで捨てている感じがする。


俺にラブレターを渡したことが、何故か酷く悔やまれているようだった。
友人の橋渡しなど幾らだって頼まれることもあるだろう。そう言う俺も、山ノ井の夏彦の所為であの手の頼まれごとはざらだった。すぐに本人から『受け取らないでくれ』とストップを掛けられたので気は楽だったけれど。
出元が男だったから俺に迷惑が掛かった、とでも思ったのだろうか。信条に反する、的な事を言っていたが、詳しいことは分からず終いだ。

膝詰めで夜明かしをしよう、と言ったのは、半分は冗談だけれど、すべてがからかいだった訳じゃない。一つ屋根の下で共同生活を送る仲間同士だ、うまくやっていきたい。
近いうち、縺れた糸を解す機会もあるだろう。

「……悪いが、匂坂を読んできて貰えるか?」

辿り着いた1年W組の教室で、扉のすぐ側の席に掛けパソコンのキーを叩いていた生徒に声を掛けた。彼の手元で、ほぼ正方形の黒いウィンドウに白い文字が現れては流れていく。
特進科の少年は隅々まで確認するかのように俺を頭から爪先まで眺めやると、眼鏡を掛け直すような仕草(実際、かけ直しはしなかった。おそらくは癖なのだろう)をし、軽く頷いた。立ち上がり、教室を見渡して、

「サギサカって居る?人、来てるぜ」
「…………」

知らないのか。
若干呆れつつ、まあ末とは言えまだ5月だからそういうこともあろうかと思っていたら、窓際の方から物音、そして駆け寄ってくる細身の影があった。
中性的、というよりは女性的な風貌の少年は、驚愕と興奮に全身をわななかせているように見える。容姿と筆跡に通ずるところがあるような気がするのは、こじつけだろうか。

襷も冊子も、それからチケットも。手の中で一緒くたになっていた。
眼鏡の生徒に礼を言い、随分下の位置にある少年にひたりと視線を合わせて、名乗った。

「突然、押しかけて済まない。普通科2年6組、見目惺だ。手紙は読んだ。君に話があって来た―――今、時間は大丈夫だろうか」





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