(2)



「…、み、はる…」
「……」

背中に密着する彼の温度が、怖い。混乱する。なまじ器が同じだけに、違うところなんて、ちゃんと目を見開き、耳を澄ませてなければ分からなくなってしまう。
盥を乗り越え、まな板やステンレスの縁に勢いよく跳ね返った水は、今や俺の腹を、そこを押さえつけている観春の腕をも冷やしている。火傷した右手――いや、右腕は言わずもがなの状態だった。そちらも、同居人の腕ごと関係ないところまでびっしょりだ。それでも彼は俺を解放しない。放してくれ、と言わなければいけないのに、驚愕と緊張で舌の根が貼り付いてしまったようだった。
観春も、いけない。いつもならばこれ倖いと(または鬱憤晴らしに)俺を糾弾する口は、貝の合わせみたいにぴたりと閉じてしまっている。
早く、何か言ってくれ。詰る言葉でも、嘲弄でもいいからとすら思い始めた俺は相当に混乱していたのだ。


…ぞくん。


「…っ、は…?」

そんな時だった。
寒気。
ぞくぞくと全身を奔るそれを、初め、凍えてしまった身体が本能に従った反応だと思った。シンクの側についた体躯の前半分は胸のすぐ下から膝頭くらいまでをしとどに濡らしていたから。…でも、すぐに誤りに気が付く。気付いて、ぞっとした。
腹部に宛がわれた観春の掌が、俺の動きを押しとどめているそれが、平らかな胸の感触を確かめるように緩やかに動いている。愛用している紺地のエプロンは、布地がしっかりしていて分厚い部類に入る。なのに、まるでなき物のごとく、這い回る手の温度が肌へ浸透してくる。シャツや、デニムのトップボタンが擦れる。腰が、ひくり、と揺れた。
身体と、心に植え付けられた甘やかな記憶が揺れる。あの長い指がシャツの間からしなやかに這入り込んでくる。ボタンを弾き、下着に潜り込んで、あさましくも芯を持ち始めている欲望を、

「―――!」

反射的に、下口脣を思い切りよく噛んだ。痛い。痛い、けれど、理性が稲妻のかたちを取って脳へ落ちた。
駄目だ。勘違いするな。これは観春であって、冬織じゃない。反応してはいけない。考えるな、思考を鈍らせろ――――いや、考えるべきなのか?目を瞠り、耳を澄ませろ、と思ったばかりじゃないか。実行するんだ。
水、耳元で繰り返される他人の息遣い。落ち着いている。俺の呼吸の方が余程荒い。油の熱が少しずつ死んでいく音。そうだ、俺は飯の支度をしていた。これは単なる偶然で、観春の、気紛れだ。

「…っ、うわっ?!」

俯いたまま、がつがつと歯で口脣や顎の手前の肉に噛みついていたら、ばしゃり、と水が跳ねた。一瞬後には、俺の顔はずぶ濡れになっていた。視界を覆っていた影が消える。

―――観春の手だった。

「…どんくせぇ」
「…・・え、」

茫然と、鼻の頭や頬から滴を滴らせていると、低い声はもう一度同じことを言った。緩慢に、首を捻る。黒いTシャツにチノパンツといった恰好の後ろ姿が、台所を出て行くところだった。去り際に手ふきに掛けていたタオルを乱雑な動作で抜いていった。

「み、観春…?」

鉛丹色の髪はカウンター越しに目の前を通過していき、元居たソファへどさり、と落ち着いた。長い脚を組んで、大した興も乗っていなさそうな顔で雑誌の頁を捲り始める。先ほどのタオルはおざなりに腕に掛かっていた。ぺらぺらのカラーページは、水に負けてふやけてしまいそうだった。

「……」

ありがとう、と言うべきだったのだろうか。

でも、その時の俺にはそんな余裕はなかった。通り雨にでも遭ったみたいな濡れ鼠姿以上に、熱を持ち始めてしまった自分の欲がおぞましくて仕方が無かったから。

同じ顔と、同じ身体を持っていても別人なのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。俺にとっての呪言であり、よすがである筈だったそれを、自ら無効にするだなんて。そんなの、冬織に対する不貞だ。一体全体、何を考えているんだ!

油鍋が完全に熱を失っているのを確かめ、料理途中も甚だしい魚や調味液を冷蔵庫へ放り込み、適当にシンクを片付けて、自室へ駆け込む。扉を閉め、ベッドに潜り込んだ。

「…っ、く…っ」

なるべく体躯を小さく小さくたたんで、下腹部にずっしりとのし掛かる欲望を堪えた。自分で慰めることだけは、絶対にできない。観春に冬織を重ねて、勝手に欲情しただなんて、それを認めて吐き出すことなんて、絶対に。

何てことはない、絶望感に身を浸していれば、じきに収まる。眉間に力を込め、にじり合わせたい太股を必死に硬直させて丸まった。壁の向こうで微かな物音がして、直に静寂が訪れる。時計を確かめることすらも出来ず、俺は、俺自身に対して、息を潜めていた。




久しぶりに逢えた冬織は、足元へ身を投げ出した恋人を、困った風に――――でも、満更でもなさそうに受け入れてくれた。
「今日はすごい素直だ」と秀麗な顔を綻ばせた彼を懺悔の一念に駆られてながら性急に迎え、腰をくねらせた。調子に乗ったのか、色々と恥ずかしいことを言わされた気もするが、あまりよく覚えてはいない。おそらく何を命じられても諾々と従っただろうから。

一人で起きた朝、思い出したのは口脣の下のあたりをさりさりと何度も舐められたこと。鏡に映したそこには、爪痕に似た赤い疵が無数に刻まれていた。


>>>END
Z.ゴーストの帰還


- 2 -
[*前] | [次#]

[目次|main]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -