火爪



大学生の夏休みというものは、人を馬鹿にしてるんじゃないか、というくらいに長い。
観春は理系で、休み明けの試験やレポート等々、実験が入ることもあるようだったが、特に資格や免許取得を目指しているわけでもないので、バイトが多少入ってるのを除けば8月、9月は丸々休暇の模様である。観春のアルバイト――価格設定が高めのカフェ・チェーンだ――は、充実した自活を装うスタイルみたいなもので、彼を案じる、親への目眩ましにも等しい。よってシフトも実に消極的な組み方で、観春は彼の希む方面に充実した一人暮らし、…いや、気紛れに拾った高専学生(つまり俺だ)との同居生活を送っていた。

一方の俺は、世の中の高校生とに似たり寄ったりで、海の日の翌日から8月いっぱいが休みの予定になっている。尤も、こちらは演習林での実習とか、造園学の為の園庭巡りなどが控えていて、日中はそれなりに忙しかったし、夜はコンビニのバイトがあった。
国立校なので、高校生三年分の学費はともかく、以上の二年分の費用は確実に己で稼がねばならない。それに実習費用は別途徴収だし、学費以外に細々と使う金はあるわけで、切り詰めに切り詰めて金を貯めていかなきゃ駄目だ。夏休みは稼ぎを増やす恰好のチャンスだった。観春に禁止されなければ、どこか別のアルバイトと掛け持ちしていただろう。

俺が忙しかろうが暇であろうが、観春のスタンスに変化がある筈もなく、彼は相変わらず勝手気ままに過ごしていた。二日三日、続けて帰ってこないこともあれば、昼過ぎまで惰眠を貪り、気付けば起き出してくるなんてこともしょっちゅうだ。こうして纏めてみると結構な駄目人間ぶりだと思う。…外見と金となるもの、やはり偉大かもしれん。俺にとってはどうでもいいことだけど。


例によってそんな日のこと、夕食後の片付けをしながら、俺は翌朝の朝飯の下準備をしていた。
暑くなると食欲が落ちるが、酸っぱいものや冷製のおかずはそれなりにうまい。
オリーブオイルとバルサミコ酢をメインにマリネ液を作り、大蒜と生姜をすりおろしてその中に入れる。玉葱を刻んで水にさらす。パプリカも切る。買ってきた小アジの腹に包丁を入れ、えらと腑を取り去った。台所中に何とも生臭い匂いが立ちこめてくる。魚は好物だが、捌くときのこの匂いだけはどうにもならない。

観春はリビングで雑誌を読んでいるようだった。俺が台所仕事をしているときは、彼は大体そうしていて、立ち入り禁止を厳命されている観春の私室も、基本的に寝る時くらいにしか使われていない気がする。かと言って、ダイニングカウンター越しに仲良く喋るなんてのも皆無で、お互いだんまりを決め込んでいた。まるで、倦怠期の夫婦だ。

(「……なんだそれ」)

自分で思いついた喩えだったけど、あまりの内容に苦笑が漏れる。倦怠期とかって、別に付き合ってる訳じゃないんだし。

(「…冬織、だったら」)

もし、今があの限られた一時間で、後ろにいるのが冬織だったら。
まず絶対に、居間に大人しくなどしていない。べったりと寄ってきて、背中から俺を抱いてくだらない話なんかして。俺も多分、台所仕事を放り出して彼に身体を預けてしまうだろう。朝飯の支度なんていつだって出来るけど、冬織と逢えるのは、時計の針が天頂から一周する夜の間だけだから。天秤にかけるまでもないことだ。

(「今夜はどうかな…」)

ここ最近、新しい彼女が出来たとかで観春が連泊していた所為で、冬織とは電話越しの会話しかしていない。呼び出しがあれば同居人はさっさと外出してしまうので、今はくつろいでいたとしても、何分後かには消えている可能性は多分にある。
そう思うと、我知らず深い溜息が漏れた。男同士という時点で道を踏み外した恋愛なのかもしれないけれど、俺だって普通に恋人には逢いたい。ちゃんと顔を向き合わせて話もしたいし、…触れたいし、触れられたい。

そんな余所事を考えていたのが失敗の素だった。


「熱…ッ!」


ぱちゅん、という何かが爆ぜた音がして、反射的に顔の前に手を翳した。小麦粉をはたいて鍋に放り込んだ魚の身が、水分に反応した油をはじいたのだった。ぼんやりしていたら顔面――最悪、目に入っていたところだ。
慌てて気を引き締め、一度鍋の火を止めてからシンクへ戻る。見遣った右指の腹は赤く腫れていた。少し置けば酷くなってしまうかもしれない。水道のコックに手を掛けて―――、

突然、横からぬっと出てきた、より大きな掌に掴まれた。

「!」
「何、してんの」
「…――観春?」

ソファに腰掛けてファッション雑誌を眺めていた筈の彼が、音も無くそこに立っていた。

表情はマネキンのように色を欠いている。常態といえば常態だ。俺と一緒にいる時の彼の変化といったら、嘲笑か冷たい怒りか、…それくらいだ。かつて軽口をたたき合い、笑い合っていた時期があったことすら朧な記憶である。

観春は、水栓に向かっていた俺の左手を捻りながらに上方へ引き上げ、じんじんと痛み始めたもう一方の手も捕らえた。力加減は容赦がなかった。理想的な高さと線を描く鼻梁の前へ、土いじりと水仕事で荒れた指が持って行かれる。切れ長の瞳が、凝と患部を見る。名状しがたい恥ずかしさに、思わず目を伏せた。外見の美醜など気にしたこともなかったのに、相手が完璧すぎるのだ。冬織に見られる以上に辛いものがあった。

「…ちょっとぼんやりしていて、油が跳ねただけだ。なんてことない」

放してくれ、と続けようとした俺の言葉は最後まで続かなかった。
視界がぐるり、と回転し苦しいくらいに抱き込まれる。思考がおいつく前に、手から腕へと冷たく濡れた感触が。

「…っ!」

しっかりとした腕が腰に巻かれ、直上には鋭角の顎があった。右肘が軋む。観春の手がそこを抑えて、ほとばしる水流の中へ俺の手を突っ込んでいる。彼は何も言わなかった。柳眉すら、ぴくとも動かない。ただひたすらに腫れた部分へ水を浴びせかけている。あっという間に金盥は氾濫し、跳ね返った飛沫がエプロンやシャツを濡らしていった。




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