(6)
濃灰の袍が揺れ、細い体躯が吹っ飛ぶ。壁に打ち付けられ、ずるずると落ちる。礼戴の花精が走りだそうとして、友人に止められていた。
僕の手首は痛いくらいに、燭に掴まれたままだ。ちら、と見上げた彼は飄然と正灰旗を眺めていた。他の花精たちも凝と、傍若無人な扱いをした男を見ている。
…寒気のする、冷徹な眼差しで。
「ここで決着をつけても良いのだぞ。剣鉈を抜く度胸がないのであれば、先ほどの無礼を詫びる機会を与えてやろう。這い蹲って、俺の靴に頭を付けろ。さすれば許してやらないこともない」
「跡俐、」
「…大丈夫だ、」
大丈夫なことなど一つもないのだが、礼戴があまりにも弱り切ったように言うので、思わずそう返していた。旗人に跪礼をすることに、拘りはない。拘っているのは、この男だけは頭を下げたくない、ということ。
黙してただ睨むだけの僕に、正灰旗は、悦に入った顔でさらなる罵倒を浴びせた。取り澄ました外面が捲れ、嗜虐的な本性が剥き出しになる様に吐き気をおぼえる。
こんな奴に、彼を見せたくない。今すぐに目を潰してやりたい。
「探花はただのまぐれか?人の言葉を解さぬ禽獣が、玄冬宮に紛れ込んだか。冬園も終いだな。このような―――」
男の言葉は最後まで続かなかった。
突然、厚い氷の帯が男の顔の前に現れたと思ったら、それは、猿ぐつわをする要領でぐる、と巻き付いた。腕と、手と、足首の前にも同じような透明な延べ板が出現し、緊縛していく。戒められた旗人は、堪らず床に転がった。じたばたともがいているが、彼の身体に誂えたように氷はがっちりくっついて、外れる様子もない。
「…、…!」
「…え、」
「俺の主人を馬鹿にするのはやめて貰おうか」
穏やかな声。仰ぎ見れば、赤い眼を爛々と光らせた燭。能面のように表情が失せた顔で、そこだけが恐ろしいほどに輝いていた。
彼が発した言葉により、正灰旗の取り巻きが一斉に色めき立った。
花精が、花護に手を挙げたのだ。黙っている筈もない。剣鉈を抜く者まで出、正直胆が冷えた。これだけの花護を相手にして、無事に済むか、どうか。まずは番と礼戴たちだけでも逃がそう。後は――野となれ山となれ、だ。
「――おやめください」
思わぬところから制止が入って、僕はそのひとを茫然と見遣った。
よろよろと立ち上がったのは、正灰旗の花精だった。取り巻きの輪から、赤い髪の花精がまろび出て、彼女を支える。
「黄両、」
コウリョウ、と呼ばれた娘は哀しげに目を伏せた。芋虫のように転がる己が花護へ、そっと触れる。
「わたくしたちが、人に自ら手をあげることは許されておりませんが、三つだけ、例外がございます。…戦のとき、己の種族が危機に瀕しているとき、」
「それと―――自分の花護が馬鹿にされてむかついたとき、だ」と燭が後を継ぐ。
「はい。…そればかりは、道理となります。正灰旗の方々、どうぞ剣をお収めください。
…それから、燭兄様。…ごめんなさい」
「悪い、…どうにも、気が短いな俺は」
先ほどの啖呵が嘘のような、力ない応答に、僕は叫び出したいような走り出したいような、名状しがたい気持ちに陥った。
自分に身分がないことを初めて口惜しいとさえ思う。僕が旗人であれば、このひとが侮られることなんてなかった。こんな、哀しい声を出させなくても済んだ。
何と言う非力だ。もっと強くならないと駄目だ。力が、無ければ。
「……、く…っぅ…」
「…えっ、ちょ、お前なんでそこで泣くの?!」
「…っ、泣いてなんていませんっ!」
繋いでいない方の腕で目の辺りを覆い隠すと、驚きも露わにした彼に覗き込まれた。
「目から涎が出ただけです!」
「よ、涎って…お前な…。そんな馬鹿な話があるかよ…」
視界を塞いでも痛いくらいに周囲の視線を感じる。敵意は霧散していたが、今度はひたすらに呆れにまみれたそれが僕らへ突き刺さる。
もう礼戴を案じる余裕もなくて、繋いだ時間の長さで温かくなった手を掴み、ぐいぐいと引っ張った。途中で何かを踏んづけ、足元からくぐもった唸り声が聞こえたけれど、構わず前へと進む。
「…燭兄様、どうかお倖せに」
「お前もな。…生きてくれよ」
「……はい」
黄両の儚げな返答は、けれど愛情に充ちていて。あの旗人の遣りようや、彼女の行く末や、それを心配しているであろう燭のことを考えて、やっぱり僕の思考はぐちゃぐちゃになっていたのだった。
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