(5)



僅かに、本当に僅かに差した翳を僕は見逃さなかった。別れを体験したことのあるひとの表情だ、と思った。
斗与は身軽に三和土から降りると、サイズの合わない大きなつっかけに素足を突っ込み、東明さんの後を追っていった。小柄な体躯が夜の闇に融ける。
どうしてか追いかける気がおきなくて、僕はぼんやりと見送ってしまった。

「まあ、晴れるにこしたことはないな」
「…見目先輩」

呟きに振り返れば、男らしい、堂々とした筆致で書かれた短冊が目に入る。見目先輩は出来上がったそれの仕上がりを確かめるように、顔から少し先に翳して言った。

「それに幾分の一でも、こちらの頼みを叶えて貰えれば有難い」
「…ミメ、何て書いたんよ」と林さん。
「『家内安全』」

直ぐに返ってきた答えは、あまりにも普遍的過ぎて突っ込みのしようが無い。先輩らしいと言えばらしいのか。

「そういうお前らこそどうなんだ」
「『期末考査のヤマが当たりますように』」
「『赤点取りませんように』」
「『夏コンで金賞取れますように』」
「『とよとよが早くオッケーしてくれますように』」
「それは却下です」と僕。
「なに大江−」
「ケチ−」

むくれた林さんたちは、見目先輩からペンをひったくるとピンクとオレンジの短冊に「晴れ」と書き殴った。

「大家の好きになんかさせねーもんね」
「お星様公認になればモウマンタイってことで」

大いに大問題です!つうかオッケーって何オッケーって!この人たちの短冊だけ、チャッカマンで燃やしてもいいだろうか。大体、あまりにも即物的過ぎるじゃないか。目的語が無いのが余計にいやらしい!
ふつふつと怒りを沸き立たせる僕だって、そりゃまあ、「斗与とたくさん居られますように」って書いたよ。行間には、思いの丈をぎゅう詰めに詰めた。誰に見られても恥じるものじゃない。むしろ胸を張って学園の屋上から全世界に対して宣言することだって厭わない。斗与に嫌われるからやらないけど。

「大家の愛って重いよね−」
「余計なお世話です!林さんたちみたいに浅薄じゃないんです、僕は!」

毎度おなじみの揉め事が始まる前に珍しく退席してしまった東明さんの代わり、じゃないが、うっかりと喧嘩を買ってしまった僕は、以降の展開を知らない。



例によって傍観者に徹していた特進科の二人は、ぎゃあぎゃあとおっ始めてしまった僕らを茫洋と見ている。勿論、仲裁に入ったりはしない。良きにつけ悪しきにつけ、彼らはそんな柄じゃないのだ。
少し考える様子を見せた後で、黒澤君は新しい短冊に筆を走らせた。東明さんが言った台詞そのままの内容に、皆川君が意外そうに片眉を上げた。らしくないと思ったみたいだ。

「何、お前書くのそれ」
「…ああ」
「あれ、備、自分の願い事何書いたんだ?」

そう言えば黒澤君は折り紙に専念するばかりで、何か書いていた風はなかったのだ。彼は顔すら上げずに答えた。

「…白紙だ」
「…はあ」
「人に叶えて欲しいことなんて何もない。…それより、皆川」
「なんだよ」
「てるてる坊主は、どうやって作る」
「……」

こっそりと頭を抱える皆川君。
この友人は兎角庶民の慣習に飢えていて、ちょっとしたことでも目を輝かせるし、没頭してしまう。
先輩の頼みの通り、量産されたてるてる坊主が、軒先や―――もしかしたら笹本体にぶら下がることは想像の範疇内だった。黒澤君は手先が器用なので、こつさえ掴んでしまえば一人で全員分の働きをするに決まってる。
自分はと言えば、熟考の後、中学時代の友人を案じる内容の短冊を書いた。
それが濡れずに済むのなら、一個くらい作るのは易い話かと、眼鏡の特進科生はティッシュを引き抜いた。


湿気を含んだ夜には、東明さんと斗与が二人きりでいた。出しっぱなしの脚立に細い身体が乗るのを、それとなく支えている。

「俺がやるか?斎藤」
「いいえ、大丈夫です!…そんなに、いいもんでもないのでっ!」

彼の願い事は、ずっと前から二種類しかない。
お母さんが生きていた頃は、「背が伸びますように、家族みんなが元気でいますように」。入院していた頃は「母さんが早く元気になりますように」。母親を失ってからは、彼女が生きていた頃に文面が戻っている。

「じゃあ、ついでに俺のも頼むよ」と東明さんは言い、持っていた短冊を上方に突き出した。斗与はそれを、そっと掴む。壊れ物を捉えるみたいに。
辛い願いをした経験があるひとは、どんなものであっても、人のそれを軽視出来ないのかもしれない。先ほど、下宿生の前で公言された内容が書かれた短冊を、彼は丁寧に笹の葉へ括り付けた。倣って書いた自分の分も、すぐ隣に結わえる。

「東明さん、七夕好きなんですか?」

たった数段の脚立から降りるのに、先輩はごく自然に手をさしのべた。あまりに当然のように差し出されたので、斗与は疑いもなく東明さんの手を支えにして地面へ降りる。問い掛けられた二級上の青年の顔は何とも複雑そうだった。フルリムの眼鏡をせわしく直し、困ったように笑い返す。

「特別好き、って訳じゃなかったんだけど…。身につまされたというか、こう、頼まれた感が…」
「頼まれた?」
「うん…。なあ。―――…何か、悪かったな」
「何がですか?」
「強制したみたいで。…俺だけだったら、駄目な気がしてさ。お前らの方が何かこう、…色々強そうだし」
「お前、っていうか、あいつら、でしょ」と斗与も苦笑する。「確かに、分かるような気がします」
「はは…」

玄関の灯りを映して蜜色に煌めく瞳が笹を眺める。賑やかな七夕飾りを纏い、青々をした胴体を揺らす様は、雨気を孕み、肺にもたれるように重い空気の中でも涼やかだった。

「晴れると、いいですねー」
「…そうだなあ…」


繋がったままの手を忘れて彼らは、揃って標を見上げている。
星は雲に隠れ、橋を架けてくれるという鳥の羽ばたきは遠く、姿もない。


―――――それでも。


>>>I'll see you,soon...




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