(4)



美声と評しても差し支えない、滑らかに低い男の声だ。顔が良くて声まで良いのか。どんだけ恵まれてるんだこいつは。
大いに拒絶だよ。立ち入り禁止、押し売り厳禁、悪徳商法反対だ。勿論そんな罵詈雑言も口に出来ないので、俺は沈黙を続ける。

しかし、扉を開けるとかいうアクションをした方がいいんだろうか。
本来は部屋に入れる許可は迎える女主人――この場合においては俺がすべきところだ。締め出したり、閂を降ろしたりというのは、通いを断る意味になるから。身分の高い家だと傍仕えが居て、代わりに開けてくれるものだが、勿論妹にも俺にもそんなもんは居ない。さて、どうしよう。

だがそんな悩みは一瞬後に杞憂に終わった。アグレッシブな御曹司殿は、自分で扉を開いたのだ。木々の匂いに混じって、香の薫りがする。外気が流れ込んできたのが分かる。俺の視界は相変わらず赤一色なのである。

「…これは、」

燕寿は絶句した。扉を開け放したままで、靴の踵を鳴らしながら俺の正面にまでやってきたようだった。彼の目には椅子に掛けている、頭から爪先まで真っ赤っかの人っぽい何かが映っている筈だ。

「返事をされないのはせめてもの抵抗ということですか」
(「知るか馬鹿」)
「出来ればそのお声を聞かせて頂きたいが…無理からぬことか。想う相手が居るとは聞いております。それが叶わなかったということも」
(「叶わなかったんじゃなくて、てめぇがぶち壊しにしかかったんだろうよ」)

怖気の走る喋り方も台詞の内容も、今すぐ口を塞いでやりたいくらいにむかつく。俺は袖の下で、着物ごと、ぎゅうと膝頭に爪を立てた。温厚な俺をここまで怒らせるとは一種の才能だな。
…だが、燕寿という男は俺の想像の上をいく野郎だった。これくらいでむかっ腹を立てるのはまだ早かったのだ。

拳を作ったこちらの意図をさっぱり分かっていない御曹司は、腰を屈めて俺の手に触れた。夏渟はその名の通り常夏の国だ。それなのに、燕寿の手はひやりと冷たかった。

「…貴女はただ、私の子を産めばいい」
「…は?」

思わず零れた声は裏返っていて、男のものか女のそれか、判断がつかないくらいに高かった。俺は失態に息を呑んだが、燕寿の方は全く気付いた風はない。危ねえ。でも何て言ったよ今こいつ。

「その後は紅旗の男に通じようが、誰と不貞を働こうが咎めだてはしない。好きに生きればいい。子は我が家で引き取ります。望めば離縁もしよう。緋旗に帰るも良し、紅旗に嫁ぎ直すも良し」
(「…な、…なんだって…!」)
「道具というのはつまりそういうことでしょう」と燕寿は、感情のこもらない声で言った。「私はあなたと家庭を築くつもりはないし、理解を望んでいるわけでもない。本当は子どもだってどうでもいいが、…私が家に縛られないためには、私以上に力の強い者を正朱旗に残しておく必要がある。現状の人材では望めないのでね。ならば作るしかないということだ」
「……」
「貴女にとっても悪い取引ではないと思いますが?…まあ、断られても今宵は事を果たさねばなりますまい。互いの義務だ」

何が、義務だ。

ふつふつと怒りが沸いてきた。妹の縁談を聞いたとき以上の、頭が真っ白になるくらいの怒りだった。
つまり、こいつは!
自分が好きにしたいから、身代わりが必要で、その為に俺の妹に目を付けたってことで。しかも結婚前提で交際している相手が居ると知った上で、割り込んだってそういう話かよ!
で、子どもが出来たら好きにしていいだと?

(「…ふざけんな…!」)

一度、婚家から離縁をされた女がどんなに面倒か、上流階級の出なら厭という程知っているだろうに。仮にも「旗」がつく家の出なら、二度目の婚姻は有り得ない。妹を受け入れると言ってくれた空戒の家だって、再婚であれば断るだろう。
「旗」において、離縁は家の恥だ。出戻りなんて、了見の狭い義父母が赦すわけがない。

段々分かってきたぞ。

こいつ、絶対に分かって言ってる。
燕寿にとってうちの妹は言葉の通り、単なる道具だ。後で彼女がどうなろうと、知ったことではないのだ。平然と使い捨ての、畜生並の扱いをしようとしている。

…駄目だ、もう我慢ならん。

「では、…早く済ませてしまいましょうか。今夜だけでうまく行くとは限らない。明日以降も、様子を見て参りますので」

大きな掌がぐい、と肩に掛かる。正方形の布の、端が引っ張られる感覚。

話の引き延ばし方にも色々あるだろう。仲良くお喋りをして時間稼ぎをするもよし、―――喧嘩を売って、稼ぐもよしだ!


「…残念だったな。何でもかんでも、てめえの思い通りに行くとは思うなよ!」


俺は叫び、相手が引っ張っていた布を自らばさりと取り去った。
簡素だった空間に無理くり調度品を詰め込んだ、妹の部屋が再び視界に戻った。

唯一の異分子は、碩舎で時々見た、長身の男だけ。

黒く切れ長の目をこれでもかと大きく瞠り、茫然と俺を見つめている。滑らかな膚は血の気を失い、すっかり青ざめていた。形の良い口脣が戦慄くのに溜飲が下がる思いだった。

花嫁衣装の男が啖呵を切ったところで笑い話にしかならないが、鼻持ちならないお貴族様を出し抜いた達成感が、俺をいい気分にさせていた。腰に手を当て、胸を張る。クソ、身長差が半端ねえ。下から睨み付けて、唾を吐く――のは流石に柄が悪過ぎるので、鼻でせせら笑ってやった。うん、すっきり。

「驚いてくれて、…こっちもこんな馬鹿馬鹿しい恰好をした甲斐があったよ。妹は此処には居ない。お前の手に、渡ることも、――――っ?!」

ない、と宣言しかけた俺の言葉は、形にならなかった。
肩と腕を襲った衝撃に、顔を顰める暇があったか、どうか。すらりとした長身が突っ込んできた、と思ったら、掴みかかられて寝台の上に放り出された。な、なんだ?何事だ?!

「おい、ってめ、こら…っ!」

怒り心頭で殴られるとか蹴られるってんなら分かるが、え、これ何展開だ。押し倒してからボコるとかそういう話?
何せ覆い被さっている燕寿の顔は鬼気迫っているとしか表現できない。食い入るように俺を見つめた挙げ句、あろうことか、襟に手を掛けた。
ちょ、待て。断って置くが俺は女顔とは程遠い。そして美形でもない。素晴らしく凡庸な顔立ちで、まかり間違っても妹――というか、総体的に女性と判断される要素は何処にもないのだ。にも関わらず、燕寿は袷を開き、薄絹の下着(これまで付ける必要があったのかは疑問だ)を引き上げて、平坦な俺の胸板を晒した。よくよく疑り深い性格と思われる。

「…気は済んだか」

俺はじっとりと睨みながら薄絹に手を掛けたままの、燕寿の腕を掴んだ。あまり乱暴を働かれても困る。妹に耳揃えて送ってやるものだからだ。
ついで、肘を支点に上体を起こそうとしたが、首筋に走ったぬめったい感触に、動きを阻まれた。

「…っ!なに、しやがる…っ!」
「…この、紋様…」
「当たり前だろ!俺はあいつの兄貴なの!だから同じ『掛け合わせ』で…花紋だって付いてるっての!」

純粋な花精ほどしっかりは出ていないが、血を継いでいる厳然たる証。首飾りのように不思議な模様を描く刺青は生まれついてのものだ。そこを、なぞるように…確かめるように燕寿は舐めた。背中に一気に鳥肌が起つ。

「離せ!」
「お前、…本物か…」
「本物な訳ないだろこの馬鹿たれ!あのさ、お前人の話さっきから聞いてねえだろ。俺は兄貴の方だって。男なんだって!」

御曹司は未だ信じがたいように、首を横に振った。少し長目に残してある短髪が、ぱさぱさと揺れる。視線は相変わらず俺に落ちたまま、馬乗りの体勢もそのままだ。重いよ。そして鬱陶しい。男に跨られる趣味なんて、持ち合わせがない。

「理解出来たならどいて欲しいんだけど。普通に重い」
「夏渟の主、炎斑(ほむら)に感謝を。…こんな僥倖に恵まれるとは思わなかったぜ」
「はあ?」

突然、神に感謝の言葉を捧げたかと思ったら、燕寿はもう一度上体を傾けてきた。瞬きを繰り返し、顎を引いて奴の顔を見返していて――――俺は、凍った。黒々とした双眸に妙な熱が浮かんでいる。ぎらぎらとした、肉食獣のような、それ。


こいつ、まさか、

「かくら」
「―――?!」
「お前が、ずっと欲しかった」

殿上人たる男に自分が覚えられていたことも、言葉の内容も、驚くには値しないことだった。燕寿がその先にしでかしたことと比べれば、大したことじゃない。



- 5 -
[*前] | [次#]


◇PN一覧
◇main


「#学園」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -