見目と鍋



【見目と鍋】(見目)


空きっ腹を抱えて下宿に戻る。防具も竹刀も今日は置いてきたので身軽なものだが、内臓まで失ってしまったんじゃ、というくらいに身体が軽い…いや、空腹でふらふらする。

時刻は既に六時を回っている。夕方と夜の境が短い季節だ。外気はコートを突き抜けて寒さを伝えてくる。枯草がまとわりついた獣道を抜けた先、大江家からはぼんやりとした灯りが見えた。

いつもなら大家さんが夕食を作っていてくれるところ、長い休みの間に限っては自分で調達しなければならない。そのためもあって、二階の水場にはシンクやレンジ類が置いてある。
今年については、母屋の炊事場も使って良いとのお達しが出ているのだが。

(「…何ができる訳でもなし」)

 俺の家は『男子厨房に入らず』を実践していて、上の兄共々料理なんてまともにやったことがない。米は炊けるし、味噌汁くらいなら怪しい手つきで何とかなるが、台所に入ろうものなら、俺の面倒を見るのに全身全霊を傾けかねない妹、彼女がとんでもない剣幕で怒り狂うのだ。
妹、多鶴(たづ)の説教は非常に面倒臭い。一体誰に似たのだと言いたいくらいのしつこさだ。私の仕事を奪う気か、などと、お前の本分は勉強だろうに。

時代錯誤と言われても弁解しようもないけれど、家風に甘え、妹に圧され、今に至るまで炊事は無縁の代物である。

「ただいま、戻りました」
「……お帰りなさい」

 誰が居ても居なくても、必ずする帰宅の挨拶へ、意外な人間から返事があった。
開け放してあった硝子戸の、簾をくぐって現れたのは黒澤備。長身の特進科一年生だ。
基本的に無愛想無干渉だが、多分、うちの面子において常識人の部類に入る男だと思う。性格も割合と素直だ、――皆川の方が余程ひねくれ者だ。
勘違いで無ければ、斎藤同様、俺を警戒している節がある。…特段、何か仕掛けたつもりはないにも関わらず、だ。

 黒いシャツに黒いデニムを着、大きな手に薄い冊子を携えた彼はどこか所在なさげな風があって、自然に首がかしいだ。超然とした普段の様子に比すればらしくない姿だ。

「どうしたんだ、こんな所で」
「いえ」

 三白眼がふうっと落ちた先は、手の中の本だ。カラフルな写真の表紙を見やると、それは簡単な料理を紹介した、最近よく見る手合いのものだった。

「黒澤は、料理をするのか?」
「…できません」

硬質さが増した声に、彼の心情が分かった気がした。世間知らずだとか、恥だとか思っているのかもしれない。

夏彦から聞いたが、黒澤の家――祖父は、政界で知る者なしの高名な人物だとか。鎌倉の御方、などと渾名されていて云々、と耳に挟んだ記憶がある。山ノ井の家以上に歴史があり、強大な権力を持った家だと聞く。出自は必ずしも理由にはならないと思うが、一年弱同じ家で生活して、行動の端々で大切に守られ、育てられた人間だと感じた。
同じ金持ちでも夏彦や昴の傍若無人さに比べれば、ほんとうにまともだ。

「飯を、作ろうかと思ったのですが」
「あ、ああ」

珍しくも会話的なものが始まりそうだったので、俺は鞄を床へ落とした。黒澤は、自らの左手で丸めた本をじっと見つめたままだ。


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